第10話 水神の試練
ヴィクトルが、水神の扉へ手をかざした瞬間だった。
──ドクン。
まるで巨大な心臓が鼓動したかのように。
神殿全体が震えた。
「っ……!」
青白い光が、扉の隙間から溢れ出す。
それは瞬く間に膨れ上がり、祭壇を、壁を、天井を呑み込んでいく。
光が、その目の前を呑み込んだ。
「――っ!」
次の瞬間世界が反転した。
上下も左右も、光と闇の境界すらも分からなくなり──
ヴィクトルの意識は、深い水の底へ沈んでいった。
◇
「……」
静かだった。
あまりにも静かでヴィクトルはゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
目の前に広がっていたのは、巨大な神殿だった。
だが、その全てが水の中に沈んでいる。
天井。
柱。
床。
祭壇。
すべてが深い青に包まれていた。
水面はない。
太陽もない。
それなのに、神殿には淡い青白い光が満ちている。
まるで月明かりが水そのものから生まれているようだった。
ヴィクトルは自分の手を見る。
指先から髪の一本に至るまで、水流に揺れている。
衣服も水の中に漂っているというのに、不思議なことに重さを感じない。
「……息が、できる?」
恐る恐る息を吸うと、普通に呼吸ができた。
肺に水が入ることもない。
むしろ空気の中にいる時よりも、身体が軽い。
「水の中……なのに」
その時──ぽたり。
目の前を、小さな水滴が落ちた。
水中なのに、何故か水滴が落ちた。
「……?」
ヴィクトルが目を凝らす。
水滴は床に触れた瞬間、波紋となって広がった。
その波紋が、神殿の床一面へと走っていく。
まるでヴィクトルの存在を、この場所全体へ知らせるかのように。
そして。
──ズズズズズ……
低い音が響いた。
柱が、床が、水が震える。
ヴィクトルは反射的に剣へ手を伸ばした。
「……何かいるのか?」
神殿の奥。
巨大な祭壇の向こう側。
暗闇が、ゆっくりと蠢いた。
その瞬間大量の水が渦を巻いた。
1本…2本……10本………100本。
無数の水流が絡み合い、巨大な身体を形作っていく。
長い胴、鋭い爪、巨大な角、そして二つの瞳。
それは水でできた竜だった。
否。
竜の形をした、水そのもの。
その巨体は、神殿そのものを覆い尽くさんばかりに巨大だった。
アル=ジャウハルで遭遇したオアシスの龍ですら、比較にならない。
ヴィクトルは息を呑んだ。
「……水龍」
水龍が、ゆっくりと首をもたげる。
口は動いていないのに声が響いた。
音ではなく水そのものが震え、ヴィクトルの身体を通り抜け、魂へ直接語り掛けてくる。
『──汝』
ヴィクトルの身体が強張った。
『何を守るために、力を欲する』
「……」
予想していなかった問にヴィクトルが答えに詰まる。
力を示せ、強さを証明しろ。
そういう試練だと思っていた。
だから、剣を握っていたのだが、問われたのは──力の使い道だった。
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
そしてゆっくりと、剣から手を離した。
「……僕自身のためではありません」
水龍の瞳が、僅かに細められる。
「僕には、守りたい人がいる」
脳裏に浮かぶ愛しいひと、イリシア。
悪友とも呼べる幼なじみのジュリアン。
大切な仲間のルーク、ミーナ、ミレイユ。
旅の途中で出会った人々。
そして王都に暮らす人々。
自分を「殿下」と呼ぶ者たち。
顔も知らない民たち。
それでも彼らの暮らしが、自分の国を作っている。
「僕には、守りたい場所がある」
ヴィクトルは拳を握った。
「帰るべき場所があります」
一歩、水の中を踏みしめる。
「だから、力が欲しい」
『……力とは、何だ』
「……」
すぐには答えられなかった。
剣。
魔法。
王族としての権力。
人を守るために必要なものは、いくらでもある。
けれど、それだけではない気がした。
「……力そのものが欲しいわけじゃない」
ヴィクトルは水龍を見上げた。
「守るために必要な力が欲しいんです」
『守るため、か』
「はい」
『ならば問おう』
水龍の身体が、ゆっくりと膨れ上がる。
『守るとは、何だ』
ヴィクトルは答えようとして、言葉を失った。
守る。
その意味なら分かっているつもりだった。
敵を倒す。
危険から遠ざける。
自分が前に立つ。
傷つかないようにする。
だが本当に、それだけなのだろうか。
『答えられぬか』
「……いいえ」
ヴィクトルは顔を上げた。
「まだ、分かりません」
『……』
「だから──」
剣を抜く。
「教えてください」
水龍の瞳が、わずかに光った。
『──ならば』
神殿全体が震えた。
『その答えを、己の力で掴め』
瞬間。
轟音。
巨大な水流が、ヴィクトル目掛けて襲い掛かった。
「──っ!」
ヴィクトルは咄嗟に横へ跳んだ。
轟ッ!!
直前まで立っていた場所を、濁流が薙ぎ払う。
「これが……水神の試練!」
ヴィクトルは剣を構えた。
水龍が口を開く。
次の瞬間、巨大な濁流が神殿を埋め尽くした。
「っ!!」
ヴィクトルは水魔法を展開する。
自分の周囲へ水の壁を作り出す。
だが。
ズガァァァン!!
「くっ……!」
水壁が一瞬で砕けた。
「なんて……力だ……!」
押し返せない水そのものを相手にしている。
剣で斬ろうとしても水は刃をすり抜け、魔法で止めようとしても止めた端から別の水流が襲ってくる。
「なら……!」
ヴィクトルは足元へ魔力を集中させた。
水を固め、足場を作り、跳ぶ。
「──そこだ!」
水龍へ向かって駆ける。
剣を振る。
ザンッ!
刃が水龍の身体を切り裂いた。
だが切り裂かれた水は、瞬時に元へ戻る。
「……!」
そして背後から巨大な水の塊が襲い掛かった。
「ぐあっ!」
ヴィクトルの身体が吹き飛ばされる。
背中から柱へ叩きつけられた。
「っ……!」
痛みはある。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
ヴィクトルは立ち上がった。
避けても押し返しても次から次へと四方八方から水流が襲いかかる。
まるで水そのものが意思を持ち、ヴィクトルの動きを読んでいるようだ。
「……くそっ!」
剣を構えるが、水流は剣を避けた。
「……!」
その瞬間、気付いた。
「避けてる……?」
水龍はヴィクトルの攻撃を受けているのではない。
力を真正面から受け止めるのではなく受け流している。
形を変え。
再び襲い掛かっている。
「……水は」
ヴィクトルは呟いた。
「止まらない」
剣を下ろす。
そして襲い掛かってくる水流を、避ける。
一歩、また一歩。
「だったら……」
流れを読み、濁流が右へ流れる。
ヴィクトルも右へ。
次の水流が左から来る。
左へ身体を滑らせる。
「……逆らうんじゃない」
水の流れに身を預ける。
水がヴィクトルを押し、その勢いを利用する。
身体が、まるで水そのもののように滑っていく。
「これなら……!」
初めてヴィクトルは水流を利用して、神殿の奥へ進んでいく。
水龍の瞳が、僅かに細められた。
◇
どれほど進んだのか、時間の感覚すら失われていた。
やがてヴィクトルの目の前に、一つの光景が現れた。
「ッ!」
そこには三人の人影があった。
水の中に閉じ込められている。
「ルーク!?ミーナ!?」
ルーク、その隣にはミーナ。
そして……
「イリシア……!」
誰よりも大切なイリシアがいた。
三人とも、水流に身体を絡め取られている。
「待ってろ!」
ヴィクトルは駆け出した。
だが水龍の声が響く。
『一人を選べ』
「……!」
足が止まる。
『一人を救えば、残る二人は沈む』
ヴィクトルは三人を見る。
「……そんな、一人なんて……」
『選べ』
「……」
『王とは、決断する者』
水龍の声が響く。
『全てを救うことなどできぬ』
ヴィクトルの拳が震えた。
確かに王として生きるなら、いつか何かを切り捨てなければならない日が来るのかもしれない。
十人を救うために一人を犠牲にする。
百人を救うために十人を切り捨てる。
そんな決断を迫られることもあるのかもしれない。
「……それでも」
ヴィクトルは顔を上げた。
「僕は選ばない」
『ならば三人とも沈む』
「……ふざけるな」
剣を握る。
「僕は、そんな王にはならない」
『理想論だ』
「そうかもしれない」
ヴィクトルは一歩前へ出る。
「だが──」
水魔法を展開する。
「理想を諦めるために、力を求めたわけじゃない!」
ヴィクトルは水流へ飛び込んだ。
「全員で帰る!」
一人また一人。
水流を読み、流れを変え、身体を滑らせ、ルークの腕を掴む。
次にミーナ、そして。
「イリシア!」
三人の手を一つずつ確実に掴んだ。
「絶対に離さない!」
だが次の瞬間。
──ゴォォォォォッ!!
水流がさらに激しくなった。
「ぐっ……!」
四人の身体が一気に引き離される。
ヴィクトルは歯を食いしばった。
「離すもんか!!」
三人の手をより強く握るが、力が足りない。
水圧に押され、魔力が削られる。
肺が苦しい。
「……くっ……!」
視界が霞み腕が痺れる。
それでも手だけは離さなかった。
『──ならば』
水龍の声が響く。
『次の問いだ』
世界が白く弾けた。
◇
気付けばヴィクトルは一人だった。
静かな水牢の中。目の前にイリシアがいる。
「……イリシアッ!」
手を伸ばす。
あと少しで届くが、その背後に巨大な水龍が現れた。
『汝一人が犠牲となれば、他の者は助かる』
ヴィクトルの動きが止まった。
『己を差し出せ』
水龍の声は静かだった。
『そうすれば、彼らは生きる』
ヴィクトルはイリシアを見る。
そしてゆっくりと首を横へ振った。
「……それは」
剣を握り直す。
「守るって言わない」
『……』
「僕一人が犠牲になればいい?」
ヴィクトルは笑った。
悲しい笑みだった。
「そんなのは、ただの逃げだ」
自分が死ねば誰かが助かる。
それは、一見すると立派な行為に見える。
けれど残された者たちはどうなる?守られた者たちは?
「僕が死んだあと」
ヴィクトルは水龍を見る。
「残された人たちは、僕の死を背負って生きていく。そんなものを、守ったなんて言いたくない」
水流が荒れ狂う。
「僕は王族だ」
ヴィクトルの瞳に、強い光が宿る。
「だからこそ、自分一人の命を差し出して、それで責任を果たしたつもりになるなんて──そんな無責任なことはしない」
一歩前へ出る。
「僕は生きる」
そして。
「みんなも生かす」
『不可能だ』
「なら……っ!」
魔力が膨れ上がる。
「可能にするまで諦めない!」
水流が爆発した。
ヴィクトルは真正面から立ち向かわない。
先ほど学んだ。
水は力で押さえつけるものではない。
流れを読み、受け入れ、利用する。
「──そこだ!」
ヴィクトルは水流へ飛び込んだ。
身体が渦に巻き込まれるが、その勢いを利用し、一気に加速。
「イリシア!!」
ヴィクトルがイリシアの手を握り、抱き寄せる。
水流が2人を引き裂こうとする。
ヴィクトルは逆らわずに、水流に身体を預け渦を作るその中心へ体が向かうようにする。
「今だ!」
水魔法を解放した。
2人を包み込む巨大な水の球体。
濁流が激突し、水壁が軋む。
「ぐっ……!」
魔力が削られる。
それでもヴィクトルは手を離さない。
「……全員で……」
歯を食いしばる。
「帰るんだ……!」
水壁が限界を迎える。
ヒビが走る。
「帰るんだぁぁぁぁぁっ!!」
──ドンッ!!
世界が弾けた。
◇
静寂。
ヴィクトルはゆっくりと目を開けた。
そこには穏やかな水が広がっていた。
先ほどまで荒れ狂っていた濁流は、跡形もない。
ルーク、ミーナ、そしてイリシア。
三人とも無事だった。
ヴィクトルは大きく息を吐いた。
「……よかった」
その正面に巨大な水龍がいた。
だが先ほどとは違う清流のような静けさ。
その瞳には、初めて明確な光が宿っていた。
『汝は力を、己のために求めぬ』
ヴィクトルは黙って聞く。
『他者を救うために、己を犠牲とする道も選ばなかった』
水龍がゆっくりと首を下げる。
『何故だ』
ヴィクトルは少し考えてから答えた。
「……大切だからです」
『……』
「守りたい人が、自分のせいで苦しむ未来なんて……僕は望まない。僕が守りたいのは、彼らの命だけじゃない」
胸へ手を当てる。
「笑っていられる未来です」
水龍は沈黙した。
『──守るとは、己を捨てることではない』
その声は先ほどまでの試すようなものではなかった。
静かでどこか優しい。
『己もまた、生きて帰ること』
水流が穏やかに揺れる。
『守るべき者と共に、明日へ進むこと』
ヴィクトルの目が見開かれる。
『水は、器がなければ形を持たぬ。されど器だけでは、水は流れぬ……
支配するのではない、抗うのでもない。
共に流れ、その流れを未来へ繋ぐ』
水龍の身体が、少しずつ崩れていく。
巨大な身体が無数の水滴となり。
神殿全体へ溶けていく。
『汝は未だ未熟だ、故に傲慢』
「……!」
『だが』
水龍の瞳が、最後にヴィクトルを見据えた。
『己の未熟さを知り、それでも守ることを諦めぬ者こそ──』
青白い光が、神殿を満たす。
『力を持つ資格がある』
そして。
『──合格とする』
その瞬間、水龍の胸元から、一条の青白い光が放たれた。
光はヴィクトルの胸へ吸い込まれる。
「──っ!」
身体の奥底へ清らかな水が流れ込んでくる。
熱くない、冷たくもない。
ただ静かで深く、どこまでも穏やかな力。
ヴィクトルは胸元へ手を当てた。
「……これが」
指先から淡い青い光が零れる。
「水神の加護……」
その瞬間、神殿全体が鳴動した。
──ゴォォォォォッ!!
「……!?」
ヴィクトルが顔を上げる。
先ほどまで静かだった神殿とは打って変わって凄まじい音がどこからともなく聞こえてくる。
水の音ではない、神殿の崩れる音でもない。
もっと低くもっと重く、そしてどこか異質な。
まるでこの神殿そのものとは別の存在が、こちらへ近づいてくるような音。
ヴィクトルは剣へ手を伸ばした。
「……何だ?」
水神の試練は終わったはずだったのに聞こえるその音は、あまりにも異質だった。




