第8話 神々の試練
その日の夜。
神津国の城、その奥に設けられた客人用の大広間では、静かな宴が開かれていた。
昼間に行われた外交交渉の緊張も、今は幾分か和らいでいる。
長い卓には見たこともない料理が並び、香草や香辛料の香りが漂っていた。
イリシアはそれらを眺めながら、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
正面。
上座に座るのは、神津国を治める神凪将軍──日乃神 凪。
その左には夫である日乃神 悠慎。
右には守護巫女、九重。
そして少し離れたところには、外交官として一行を迎えに来た咲羅が座っている。
穏やかな宴。
そう見えるが、凪の視線だけは先ほどから何度もこちらを見ていた。
やがて凪が静かに箸を置いた。
「……ひとつ、聞いておきたいことがある」
その瞬間、場の空気が変わった。
ヴィクトルが姿勢を正す。
イリシアも自然と背筋を伸ばした。
「ルヴァン王国から聞いているのは、我が国との外交交渉。そして──貴殿らの付き添い人の治療」
凪の視線が、ミレイユへ向く。
「外交交渉を求める理由は理解できる。だが、治療については少々不可解でな」
鋭い目だった。
責めているわけではない。
だが、誤魔化しを許さない目。
「我が国とルヴァン王国は、決して深い交流があるわけではない。それにもかかわらず、国王自らが治療を願っている」
凪は僅かに目を細めた。
「……どういう事情だ?」
暗に洗いざらい話せ、そう告げている。
イリシアは言葉に詰まった。
どこまで話すべきか。
魔族。
教会。
枢機卿。
ミレイユの過去。
そして、今もルヴァン王国に潜んでいるかもしれない敵。
神津国を巻き込むことになる。
簡単に口にしていい話ではない。
「…………」
どう答えるべきか。
イリシアが考えていると。
くいっ。
袖を引かれた。
「……?」
見ると、ミレイユがこちらを見ていた。
そして、にこり、と小さく微笑んだ。
ミレイユは静かに立ち上がる。
そして──自分の喉元を覆っていた布へ手をかけた。
「……ミレイユ様?」
ゆっくりと布を下ろす。
露わになった首。
そこには、いくつもの傷跡が残っていた。
治療された痕跡こそある。
だが、それでも消えることのない傷。
何度も、何度も、喉を傷つけられた者にしか残らない傷だった。
悠慎の表情が変わる。
咲羅も息を呑んだ。
凪はただ、静かに見つめていた。
そして
「ほほう……」
九重が目を細める。
ゆっくりとミレイユへ近づいた。
「これは随分と手酷くやられたものよのぉ」
ミレイユは黙っている。
九重の視線が傷跡をなぞるように動いた。
「この深さじゃと……声帯までやられておるのぉ」
ミレイユは、こくり、と小さく頷いた。
その仕草を見た瞬間、イリシアは覚悟を決めた。
「……お話しいたします」
凪がイリシアを見る。
「ミレイユ様は──我が国の教会に幽閉されていました」
声が静かに響く。
「そこで喉を何度も切り裂かれ、血を抜かれていました」
咲羅の顔から笑顔が消える。
悠慎も険しい表情になる。
それでもイリシアは続けた。
「わたくしたちは、秘密裏に彼女を救い出し、そして彼女を治療するため、ここまで参りました」
一度、ミレイユを見る。彼女は黙って頷いた。
「ですが……旅の途中で、ミレイユ様を幽閉していた犯人について、ひとつの事実が判明したのです」
イリシアの青い瞳が凪を見据える。
「犯人は──魔族です」
空気が凍った。
「憑依型魔族」
凪の目が細くなる。
「しかも……ルヴァン王国の枢機卿という高位の地位に就いている人物でした」
誰も口を挟まない。
「魔族が国の中心に潜んでいること。そしてミレイユ様が幽閉されていたことを知っているのは、国王陛下と王妃殿下。そして一部の高位貴族のみです」
イリシアは手を握りしめる。
「現在、我が国では国王陛下や信頼できる方々が、わたくしたちが戻るまでの時間を稼いでくださっています。
我々は国王陛下から命じられた貿易交渉を終え、ミレイユ様の治療を完了させた後、ルヴァン王国へ戻るつもりです」
「…………」
「我が国の問題は──我々自身で、けじめをつけなければならないとも考えておりますが、治療はどうしてもこの国を頼らざるを得なく、ここまでまいりました。どうかご協力をお願いいたします」
言い終えた。
静寂。
凪は何も言わなかった。
ただ、じっとイリシアを見ている。
やがて、静かに口を開いた。
「九重」
「うむ」
凪が呼ぶと、九重が立ち上がった。
「……え?」
九重がイリシアの前へ歩み寄る。
そして、そっとイリシアの頭上へ手をかざした。
「九重様?」
次の瞬間。
パァッ──!
九重の掌から、柔らかな光が溢れた。
「──っ!」
ヴィクトルが反射的に立ち上がる。
ルークも身構えた。
ジュリアンが腰へ手を伸ばす。
「大丈夫ですよ」
咲羅が落ち着いて静止する。
「九重様は真偽を確かめているだけですから」
「……真偽を?」
「はい」
九重は何も言わない。
ただイリシアの頭上へ手をかざしている。
光が、淡く明滅する。
イリシアは動かなかった。
やがて光がゆっくりと消えていく。
九重が手を下ろした。
「……ふむ」
そして凪へ向き直る。
「この娘が言っていることは、真のようじゃ」
「……そうか」
凪は短く答えた。
だが、その顔は険しい。
しばらく考え込んだ後。
「なるほど……」
ぽつり。
「ようやく話が繋がった」
凪はミレイユを見る。
喉を傷つけられ声を失った少女。
そして魔族に利用されていたという事実。
「しかし……」
凪は腕を組んだ。
「それほどの事情を抱えながら、貴殿らはこの国まで来たということか」
「はい」
ヴィクトルが答える。
「我々には、国王陛下より託された使命があります。そして──彼女を救いたい」
ヴィクトルの視線がミレイユへ向く。
イリシアも続けた。
「どうか、ミレイユ様の治療にお力をお貸しいただきたいのです」
凪は目を閉じた。
しばしの沈黙。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「……よかろう」
その一言にイリシアの瞳が僅かに見開かれた。
「しかし」
凪は静かに告げた。
「貴殿らの願いを聞き入れるために、ひとつ条件を出そう」
「条件……?」
凪は頷いた。
「神津国の神殿へ赴け」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「神殿……ですか?」
「ああ」
凪はまっすぐに一行を見る。
「神津国の医術は、ただ傷を癒やすためだけのものではない」
その言葉に九重が口元を僅かに吊り上げた。
「我らが神々は、己の力を他者へ分け与えるに相応しい者かどうかを見定めるのじゃ」
「……神々」
イリシアが呟く。
凪は頷いた。
「貴殿らが何者なのか。何を背負い、何を守ろうとしているのか。その覚悟を、神々に示してもらう」
空気が張り詰める。
凪の背後。
壁に飾られた神津国の紋章が、灯火に照らされていた。
炎。水。風。氷。雷。土。木。
七つの神を象徴する意匠。
それを見つめながら、イリシアは息を呑んだ。
「……神々の、試練」
「そういうことだ」
凪は淡々と告げた。
だが、咲羅がぽん、と手を叩いた。
「ちなみに、お母様は七神全部の試練に合格しています!」
「咲羅」
「はい!」
凪の声が低くなる。
咲羅はぴしっと背筋を伸ばした。
「……余計なことを言うな」
「すみません!」
即答だった。
その様子を見てミーナが小さく笑う。
「ふふっ……」
ジュリアンも思わず口元を緩めた。
先ほどまで張り詰めていた空気が、僅かに和らぐ。
だがヴィクトルは凪を見つめていた。
七神すべての試練を突破した者。
その人物が、今、自分たちへ試練を課そうとしている。
「……神凪将軍」
ヴィクトルが口を開く。
「その試練に、我々が挑めば──」
凪は頷いた。
「ミレイユ殿の治療について、我々は力を尽くそう」
ミレイユが目を見開く。
「ただし」
凪は続ける。
「神々が認めぬのであれば、我らも神の意思を無視することはできぬ」
その言葉にミレイユは自分の胸元をぎゅっと握った。
イリシアが彼女を見る。
「……分かりました」
凪の視線がイリシアへ向く。
「わたくしたちは──挑みますわ」
ヴィクトルが隣で頷いた。
「僕も異論はない」
「俺もです」
ジュリアンが続く。
ルークもミーナもそれぞれに頷いた。
そしてミレイユも強く頷いた。
九重がそんな彼らを眺めながら。
「くくっ……」
愉快そうに笑う。
「面白いのぉ」
九本の尾が、ゆらりと揺れた。
「久方ぶりに神々が喜びそうな客が来たものじゃ」
イリシアはその言葉に、思わず神殿の方角へ視線を向けた。
まだ見ぬ神々の、まだ知らぬ試練。
そしてこの国に来た本当の目的。
ミレイユの喉をもう一度、声を取り戻すこと。
「……必ず」
イリシアは小さく呟いた。
「必ず、ミレイユ様の声を取り戻してみせますわ」
その隣でミレイユが静かに笑った。
そして小さくイリシアの手を握った。
「…………」
声の代わりにその温もりが答えだった。




