第5話 黄泉送りの霧
璃州港での手続きは、思いのほか滞りなく終わった。
外交官である日乃神咲羅は、普段の奔放な姿とは打っての役人たちへ一人ひとり丁寧に挨拶を交わし、必要な書類へ流れるように署名していく。
「こちらが入国予定者名簿です」
「こちらがルヴァン王国東方使節団の証明書になります」
「積み荷の確認も問題ありません」
その姿は、先日船から飛び降りた少女とは思えないほど堂々としていた。
ジュリアンが思わず呟く。
「……ちゃんと外交官だったんだな」
「失礼ですね!」
咲羅は頬を膨らませる。
「仕事はちゃんとやりますよ!」
「普段が普段だからな」
ルークがぼそりと呟き、船員たちが一斉に頷いた。
「その通りです……」
「姫様は元気すぎるだけなんです……」
「胃が痛くなるんですよ……」
「皆さん!?」
咲羅が抗議の声を上げる。
その様子に、一同は思わず笑い声を漏らした。
◇
物資補給のため船は1日、璃州港へ停泊した。
港町で買った香辛料。
崑明特有の茶葉。
乾燥果実。
土産として選んだ工芸品。
荷物を整理しながら、それぞれが旅の余韻を楽しんでいた。
そして翌朝。
朝日に照らされた海へ向け、巨大な帆船は静かに帆を広げる。
「出航ー!」
号令が響き錨が上がる。
ゆっくりと船は港を離れた。
◇
甲板では心地よい潮風が吹いていた。
ヴィクトルは船首へ立ち、果てなく続く水平線を見つめる。
その隣へ、イリシアが静かに並んだ。
「……静かですわね」
「港とはまるで別世界だ」
穏やかな波。
遠くで跳ねる魚。
海鳥が船を追うように飛んでいる。
「この航海は約2日ほどです」
イリシアが微笑んだ。
「途中、海流が少し荒くなるそうですが……咲羅様がいらっしゃいますもの」
「安心だね」
ヴィクトルも笑みを返す。
その頃、咲羅は甲板を軽やかに歩き回っていた。
船員へ指示を出し、風向きを確認し、時折帆の様子まで見ている。
「順調順調♪」
しかしふと真面目な表情になった。
「でも、カミツ国へ近付くと、少し厄介なものがあります」
◇
2日後。
水平線に白い靄が現れた。
最初は霞程度だった。
しかし船が進むにつれ、白は濃く深く、海全体を包み込んでいく。
やがて船首すら霞むほどの濃霧となった。
「……来ました」
咲羅が静かに口を開く。
「霧です」
全員が彼女を見る。
「悪意ある者は、この霧の中で幻を見ると言われています。その幻へ囚われた者は、永遠に出口を見つけられません。この霧は──」
咲羅は胸へ手を当てた。
「『黄泉送りの霧』
我らがカミツ国を守護される巫女様、九重様がお創りになった神域の結界です」
霧は静かだった。
風も波も音までも吸い込まれていくようだった。
世界が白だけになる。
「ですが安心してください」
咲羅は穏やかに笑う。
「我らには九重様の加護があります。ですから幻へ惑わされることはありません。」
その時だった。
ふわり。誰かの肩へ淡い水色の光が舞い降りた。
「……?」
ミレイユだった。
光は蝶にも、魚にも、鳥にも見える。
小さな小さな存在。
それが彼女の周囲を嬉しそうにくるくる回り始める。
さらに翡翠色の光。
淡い白銀の光。
いくつもの小さな光が、まるで帰りを待っていた友人を迎えるように集まってくる。
「……これは」
イリシアが小さく息を呑む。
水色の光はミレイユの頬へ優しく触れ、風色の光は彼女の髪をふわりと揺らした。
ミレイユは驚きながらも、恐る恐る手を伸ばす。
すると精霊たちは嬉しそうにその手へ集まり、まるで笑うように光を弾けさせた。
咲羅は目を丸くした。
「えっ…?海の精霊と、風の精霊……?」
船員たちもざわめく。
「歓迎されている……」
「初めて見たぞ……」
「精霊があんなに懐くなんて……」
ミレイユは困ったようにイリシアを見る。
イリシアは優しく微笑み小さく頷いた。
「きっと、歓迎してくださっているのでしょう」
ミレイユも嬉しそうに笑う。
その笑顔を見た精霊たちは、さらに楽しそうに彼女の周囲を舞い始めた。
まるで、この国が、この島がずっと彼女を待っていたかのように。
◇
霧の航路を半日ほど進む。
やがて白銀の帳がゆっくりと薄れていく。
最初に見えたのは、山々だった。
緑深い森、青々とした峰々。
そして、海沿いへ広がる美しい城下町。
その中央には、朝日を受けて黄金色に輝く巨大な城が堂々とそびえ立っていた。
「……見えました」
咲羅が嬉しそうに笑う。
「皆さん、ようこそ!神々の住まう国──神津国へ!」
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