第32話 海の加護
カント・マリスで起きた魔族事件から、2日。
イリシアたちは隣町、ウィンディッシュの宿で束の間の休息を取っていた。
久しぶりに穏やかな朝だった。
窓から差し込む陽光が木造の部屋を優しく照らし、小鳥のさえずりが静かな空気を運んでくる。
激戦の傷も少しずつ癒え、それぞれが旅支度を整えていた。
向かう先は東。
本来の目的地──東方国家、カミツ国。
ミレイユの喉を治すための旅は、まだ終わっていない。
「はぁぁぁぁぁ〜……」
荷物をまとめながら、ミーナが盛大なため息をついた。
「エレナにお土産買いたかったなぁ……」
肩を落とすその姿に、隣で荷物を整理していたミレイユがくすりと笑う。
筆談帳を取り出し、さらさらと文字を書く。
『仕方ありません』
紙を見せられたミーナは頬を膨らませる。
「分かってるんですけどぉ。せっかく綺麗な港町で、ガラス細工とかいっぱいあったしぃ……」
イリシアも旅装を整えながら、小さく微笑んだ。
「きっと、また元の美しい街へ戻りますわ」
窓の外には、青く澄んだ空が広がっている。
「あの街には、人魚族と街の皆様との思い出がたくさん詰まっていますもの。復興には何年かかるか分かりません。ですが──」
イリシアは荷物を閉じ、穏やかな笑みを浮かべた。
「必ず、また笑顔あふれる美しい港町へ戻ってくださいますわ」
ミーナが顔を上げる。
イリシアは優しく続けた。
「その時は、もっと時間に余裕を持って参りましょう。エレナも一緒にね」
その言葉にミーナの表情がぱっと明るくなる。
「はいっ!」
勢いよく頷いた。
「今度は絶対一緒です!」
ミレイユも嬉しそうに何度も頷き、小さく拍手をした。
その様子を見たイリシアも自然と笑みが零れる。
「約束ですわ」
◇
その頃、隣の部屋では。
ヴィクトル、ジュリアン、ルークの三人が机の上へ置かれた1つの大きな貝殻を囲んでいた。
淡く青白い光を放つその貝殻は、オーリンから託された通信魔道具だった。
『……聞こえるか』
低く落ち着いた声。
「オーリン」
ヴィクトルが静かに応える。
『報告だ。救出した人魚たちは全員、命に別状はない』
三人が安堵の息を吐く。
『現在はマグメルにて治療を受けている。幸い、ミレイユ殿が治癒してくださったおかげで、全員命を繋ぐことができた』
ヴィクトルは自然と微笑んだ。
「それは本当に良かった」
オーリンは続ける。
『それから、持ち帰った催眠の核の欠片。あれは厳重に封印した。統治者であるセリュミア姫様自らがお預かりになられるそうだ』
ルークが腕を組む。
「やっぱりただ事じゃねぇ代物だったか」
『ああ、今回の事件は想像以上に深刻だった』
少しだけ間が空く。
『魔族が海の民へここまで直接干渉した記録は極めて少ない。そのため』
『セリュミア様』
『人魚族』
『鯨族』
『深海族』
『クラゲ族』
『サメ族』
『五族の長を招集し、対魔族会議を開くことが決定した』
部屋が静まり返る。
「そこまで……」
ジュリアンが低く呟いた。
『だからこそ』
オーリンの声が少しだけ柔らかくなる。
『君たちは予定通り旅を続けてくれ。東方、カミツ国。そこへ向かう理由があるのだろう?』
ヴィクトルは静かに頷く。
「ああ、ミレイユ嬢のためにも、我が国ほの未来のためにも、必ず辿り着きます」
『ここは俺たち海の民に任せろ。魔族の件も、街の復興も、犠牲者たちの弔いも、全て責任を持って引き受ける』
ヴィクトルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
しばらく沈黙が流れる。
通信が切れるかと思われた、その時だった。
『最後に一つ』
オーリンが穏やかに笑う気配がした。
『海の民に古くから伝わる言葉を送ろう』
三人は静かに耳を澄ませる。
『── 貴方がたの未来は泡沫に非ず。
潮の導きは道を照らし、巡り巡る陽の光とならんことを。
深き海の加護が、安息の揺り籠とならんことを』
その言葉は波のように静かだった。
『旅立つ仲間へ、そして命を懸けて戦場へ向かう者へ送る、俺たち海の民の祝福だ。どうか無事で、また会おう』
通信は静かに途切れた。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがてルークがぽつりと笑う。
「いい言葉だな」
ジュリアンも頷く。
「ああ。」
ヴィクトルはそっと貝殻を持ち上げる。
「また必ず、皆で会いに行こう。」
荷造りを終えた一行は宿の前へ集まった。
馬車には荷物が積み込まれ、街道には爽やかな風が吹き抜ける。
東へ続く道。
その先には、まだ見ぬ東方国家カミツ国。
そして、ミレイユの声を取り戻す希望が待っている。
イリシアは東の空を見つめた。
「参りましょう、目的地へ」
ヴィクトルが静かに微笑む。
「ああ今度こそ、本来の旅を」
ミーナは元気よく拳を突き上げた。
「カミツ国!待ってろー!」
ルークが苦笑しながら馬車へ乗り込む。
「そんな大声出さなくても逃げねぇよ」
ジュリアンも笑いながら手綱を握る。
ミレイユは胸の前でそっと両手を合わせ、遠く西の海へ向かって小さく一礼した。
助けられた命。
救えなかった命。
その全てを胸に刻むように。
やがて馬車はゆっくりと動き出した。
朝日に照らされた街道を、一歩、また一歩と進んでいく。
背後には、再び歩み始めた港町カント・マリス。
前方には、新たな出会いと試練が待つ東の大地。
──海の加護を胸に。
彼らは再び、未来へ向かって歩き始めた。
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