第6話 知恵の公爵令嬢
王都に春の風が舞っている頃。
柔らかな日差しが街路を優しく照らし、木々の葉がさわさわと音を立てる季節になった。
イリシア・ヴァルモンドは珍しく単身で、リュシアン公爵邸を訪れていた。
宰相家。
三大公爵家の一角を成す、王国最高の頭脳が集う家門。通称“知恵の公爵家”
外壁は白大理石で造られ、知的な威厳を放つ荘厳な建物だった。
応接室に通されたイリシアは、運ばれてきた紅茶に軽く口を付けながら、静かに待ち続けた。
室内は本棚が壁を埋め尽くし、空気には古紙とインクの香りが漂っている。
やがて、控えめなノックの音と共に扉が開かれた。
「お待たせいたしました、イリシア様」
入室してきたのは、ソフィア・リュシアン。
艶やかな栗色の髪を後ろで優雅にまとめ、知的な印象の銀縁眼鏡をかけた才女。
年齢はイリシアとほぼ同じだが、社交界では既に「未来の女宰相候補」と噂されるほどの人物だった。
立ち居振る舞いの一つ一つに、洗練された知性が滲み出ている。
「突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただき感謝いたしますわ」
「イリシア様からのご依頼ですもの。喜んでお受けいたしますよ」
ソフィアは穏やかな微笑みを浮かべて向かいに腰を下ろした。
遠回しな挨拶は一切ない。
最初から本題へ入る姿勢は、いかにもソフィアらしい。
イリシアも、そうした率直さを嫌いではなかった。
「早速ですが……国家に関わる相談です」
その言葉に、ソフィアの細い眉がわずかに動いた。
「国家……?」
「ええ」
イリシアは静かに頷いた。
そして、ぱちん、と指を鳴らす。
次の瞬間──
床に銀青色の魔法陣が広がった。
淡い月光のような輝きが部屋全体を包み込み、複雑な術式の紋様が壁や天井、窓、扉を次々と覆っていく。
空気が一変し、重く張りつめた。
ソフィアが目を見開いた。
「これは……」
「盗聴防止、覗き見防止、音声遮断、魔術探査妨害──そして万が一の際、内部からのみ解除可能な隔離結界ですわ」
イリシアは平然と説明した。
「……万が一とは?」
「壁の中に耳が生えていた場合、ですわね」
ソフィアが思わず額を押さえた。
「そんなことは……」
「ないと、断言できますか?」
ソフィアは言葉に詰まった。
教会が絡む話。
国家規模の陰謀の可能性。
それを考えれば、笑い話では済まされない。
イリシアは表情を引き締めた。
先ほどまでの社交界の令嬢の顔ではなく、ヴァルモンド公爵家の令嬢としての、冷徹で計算高い顔が現れる。
「ここから先は」
銀髪が魔法陣の月光を受けて幻想的に揺れた。
「わたくし個人ではなく、ヴァルモンド家の名を背負ってお話いたします」
ソフィアの背筋が自然と伸びた。
彼女は真剣な眼差しで静かに頷いた。
「承りました。どうぞ、お聞かせください。何が起きているのですか」
イリシアは机の上に、用意してきた資料を丁寧に並べた。
「まずはこちらをご覧くださいませ」
羊皮紙の報告書。
会計記録。
孤児院の統計データ。
薬品購入履歴。
そして、小さな魔法水晶。
ソフィアは無言でそれらに目を通し始めた。
部屋に深い静寂が落ちる。
一枚、また一枚とページをめくるたび、彼女の表情から感情が徐々に消えていった。
最後に魔法水晶へ魔力を流す。
淡い光が展開され、クラリッサの姿が映し出される。
侍女を激しく叱責し、杯を投げつける姿。
祈りの儀式を途中で放り出す冷たい表情。
高位神官を罵倒する様子。
そして、薄暗い部屋でフィリップ第二王子と親密に絡み合う光景。
映像が終わると、ソフィアはしばらく黙り込んだ。
やがて、低く静かな声が零れた。
「……なるほど」
「何がお分かりになりまして?」
イリシアが尋ねる。
ソフィアは資料を丁寧に揃えながら、指を一本ずつ立てて答えた。
「三つです。
一つ目──聖女クラリッサの言動が、公表されている『慈愛の聖女』像と大きく乖離している。
二つ目──教会の支出記録と実際の収容人数が一致していない。
三つ目──誰かが意図的に情報を隠蔽している」
そこまで言うと、ソフィアは顔を上げ、鋭い視線でイリシアを射抜いた。
「そして……貴女はまだ、何かを隠していますね?」
イリシアは思わず小さく笑った。
さすがだった。
前世の記憶については話していない以上、「どうしてここまで詳細に調べられたのか」という説明ができないのは当然。
気付かれるのも時間の問題だった。
「否定はいたしませんわ」
「でしょうね」
ソフィアは小さく溜息を吐いた。
「ですが……少なくとも、私に対しては嘘をついていない。それは分かります」
イリシアは黙って頷いた。
ソフィアは資料に再び視線を落とし、既に頭の中で答えをまとめ上げていた。
「イリシア様」
「はい」
「もしこれが事実なら」
ソフィアは静かだが、はっきりとした声で告げた。
「教会は、国家転覆級の不祥事を隠蔽していることになります」
部屋の空気が、一瞬で張りつめた。
「本来なら、王家と宰相府へ即時報告すべき案件です」
「その通りですわ」
「ですが、現時点では決定的な証拠が足りません」
「ええ」
「だから私のところへ来られた」
イリシアは静かに頷いた。
「お力添えをお願いできますか?」
しばしの沈黙の後──
ソフィアは紅茶のカップを静かに置き、立ち上がった。
「お断りします」
イリシアがわずかに目を瞬いた。
しかしソフィアは、穏やかだが力強い笑みを浮かべて続けた。
「協力ではありません。これは既に個人の問題ではありません」
その瞳には、リュシアン家──宰相家の誇りが強く宿っていた。
「これは国家案件です」
イリシアの口元が、わずかに緩んだ。
やはり、この人は期待を裏切らない。
「つまり?」
「私も参加します」
ソフィアははっきりと言った。
「教会の内部調査、情報整理、証拠保全、必要であれば王家への根回し──全てお手伝いいたします」
そして、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「ただし、今後はもっと早く相談してくださいませ。
一人で抱え込まないで」
イリシアは思わず笑顔になった。
「善処いたしますわ」
「信用できませんね」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
その瞬間、イリシアは確信した。
これでもう一人。
最も頼もしい、知性の味方を得たのだと。
そしてソフィアはまだ知らない。
この計画がやがて、王国の運命そのものを根底から変えることになるということを。
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