第5話 王子と黒い小鳥
春が訪れていた
ルヴァン王国の王都の街並みは、春の柔らかな風に包まれ始めていた。
街路樹の葉は緑を増し、市場では色とりどりの花と新鮮な果物が溢れ、貴族たちの装いも軽やかなものへと移り変わっていた。
その頃、イリシア・ヴァルモンドは社交界で妙に目立つ存在になっていた。
理由は単純だ。
彼女が最近、やたらと教会関係者に接触しているからである。
特に、保守派の重鎮である枢機卿バルタザール・グレゴリオの周辺に、頻繁に姿を現していた。
慈善事業の視察。
孤児院の訪問。
教会主催の晩餐会。
寄付者への感謝式典。
偶然とは到底思えない頻度で、イリシアは彼のいる場所に現れていた。
「さすがヴァルモンド家の令嬢ですな。神への敬虔な心をお持ちで」
バルタザールは白髪の髭を優雅に撫でながら、満足げに笑う。
権力と野心を隠しきれない、脂ぎった笑顔だった。
「光栄ですわ、枢機卿様」
イリシアは完璧な微笑みを浮かべて頭を下げる。
その裏で、彼女は冷たく思っていた。
(絶対に逃がしませんわ……)
初夏に開催される、フィリップ王子の生誕祭。
あの舞踏会で、この男を教会の中心から引きずり出さなければならない。
そのためなら、多少の時間と金銭の投資など惜しまない。
事業団から得た利益の一部を、惜しげもなく教会の慈善事業へ回しながら、イリシアは着実に距離を縮めていった。
同時に、もう一人の枢機卿にも接触を図っていた。
革新派の若き枢機卿、ラファエル・ドミニク。
直接顔を合わせることは避け、代わりに黒い影が夜の闇を舞う。
イリシアお気に入りの監視使い魔『小鳥』だ。
窓の隙間から音もなく入り込み、机の上に手紙を落として消える。
最初こそラファエルは驚愕し、警戒していたが、三回目にはすっかり慣れ、普通に返事をしたためていた。
慣れとは恐ろしいものだ。
手紙の内容は単純だった。
「教会内部に囚われた少女がいる」
「保守派が重大な秘密を隠している」
「夏の終わり、警備を一時的に薄くしてほしい」
ラファエルからの返事は短く、慎重だった。
「証拠を見せてください」
当然の反応である。
そこでイリシアは、少しずつ信頼できる資料を送り始めた。
クラリッサの素行を捉えた映像水晶。
購入記録の写し。
複数の証言。
そして──地下に囚われたミレイユの存在を示唆する情報。
すると、返事のトーンが変わった。
「本当なら、決して許せない。協力しましょう」
そこでようやく、イリシアは盤上に最初の駒を置くことに成功した。
◇
そんなある日の午後。
王城の奥深くにある、薔薇の庭園。
定期的に行われる、婚約者同士のお茶会だった。
爽やかな初夏の風が、色鮮やかな薔薇の花弁を優しく揺らし、甘い香りを運んでくる。
白いパラソルの下、銀のティーセットが並ぶテーブルで、第一王子ヴィクトルは紅茶を優雅に口に運びながら、何気ない調子で言った。
「最近、ずいぶん忙しそうだね、イリシア」
イリシアの手が、わずかに止まった。
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
ヴィクトルは穏やかな笑みを浮かべ、金色の瞳を細めた。
「それに、ずいぶんあちら側を構っているようだ」
「あちら側?」
「教会さ」
イリシアは小さく瞬きをし、ふっと微笑んだ。
「あら……ご存知でしたのね」
「僕以外の人ばかり構っているからね。少し嫉妬しているのかもしれない」
「まあ」
「冗談だよ」
ヴィクトルは肩を竦めて笑った。
しかし、その金色の瞳は真っ直ぐで、一切の遊びがなかった。
「でも、イリシア」
彼は少し声を低くした。
「君のことだから、何か理由があるんだろう?」
イリシアはカップを静かにソーサーに戻した。
やはり侮れない。
この人は、未来の国王となる男だ。
「あら……お分かりになりまして?」
「何年の付き合いだと思ってるんだい」
「それもそうですわね」
イリシアはくすりと笑った。
幼い頃から共に育った者同士だからこその、心地よい距離感だった。
少しの沈黙の後、イリシアは空を見上げた。
青い空を、黒い小さな影が横切っていく。
『小鳥』だ。遠くで旋回しながら、こちらを見守っている。
「ですが──」
彼女は静かに、しかしはっきりと言った。
「殿下ならば、お話してもよいでしょう」
ヴィクトルの表情が一瞬で変わった。
冗談めかした空気が消え、第一王子としての鋭い威厳が現れる。
「聞こう」
イリシアは深く頷き、これまで集めた全てを語り始めた。
教会の地下に囚われた少女。
本物の聖女ミレイユ。
偽りの聖女クラリッサ。
血を抜かれ続ける残酷な現実。
保守派の暗躍。
そして、夏の始まりに迫る危険。
話を聞くにつれ、ヴィクトルの表情は徐々に険しくなっていった。
紅茶のカップを持つ手が、わずかに強張る。
やがて、全てを聞き終えた時。
彼は静かに、しかし力強く言った。
「……助けるんだろう?」
イリシアは少し驚いた。
反対される可能性も、十分に考えていたからだ。
しかしヴィクトルは迷わなかった。
「当然ですわ」
「なら」
ヴィクトルは立ち上がり、金色の髪を初夏の風になびかせた。
王族として、そして未来の国王として、彼は静かに告げた。
「僕も協力しよう」
その言葉に、イリシアは胸の奥で初めて、ほんの少しだけ安心感を覚えた。
これで、彼女は完全に一人ではない。
救出作戦は、次の段階へと進み始めていた。
黒い小鳥が、再び空を舞う。
運命の歯車は、静かに、しかし確実に加速しようとしていた。
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