第25話 聖母
地下から這い出してきた怪物を見た瞬間。
誰もが息を呑んだ。
腐敗したような灰色の皮膚。
裂けた口。
濁った赤い瞳。
そして──
その口には、青い鱗の残る腕が無造作に咥えられていた。
別の個体は、長い黒髪を引きずる誰かの頭部を手に握っている。
骨を噛み砕く音が響く。
ごり、ごり、と。
湿った音だけが辺りへ響いた。
「──っ!」
人魚たちが悲鳴を上げる。
「あ……」
一人の青年が震え始めた。
その視線の先、グールが咥えていた長い髪。
見覚えのある真珠色の髪飾り。
青年の唇が震える。
「あれ……」
誰も返事をしない。
「違う……」
涙が零れ落ちる。
「違うよな……」
それでも現実は変わらない。
「あの髪飾り……」
青年はその場へ崩れ落ちた。
「あれ……俺の妻だ……」
絶望。
その言葉だけで、人魚たちの心が折れかける。
子どもの人魚が泣き叫ぶ。
「お母さぁん……!」
「いやあああああ!」
グールたちは笑うように喉を鳴らした。
まるで恐怖を楽しむかのように。
その瞬間だった。
「貴様ァァァァァァァッ!!」
大地を震わせる怒号。
オーリンだった。
普段の落ち着いた声音など欠片もない。
紺碧の瞳が怒りで燃え上がる。
握り締めた拳から血が滴るほど力を込めながら、一歩、また一歩と前へ出る。
「仲間を……家族を……!これ以上侮辱するなァァァァァ!!」
轟く咆哮。
その声だけで海面がびりびりと震えた。
続けて、サイラスも拳を握る。
その優しい青年の表情はもう無かった。
「……返せ」
海底の奥底を這うような低い声。
普段の穏やかさが嘘のようだった。
「返せよ……」
肩が震える。
「それは……食いモンじゃない。俺たちの仲間、家族だ。返せェェェェェッ!!」
鯨族特有の低い音波が怒号と共に放たれる。
空気が歪む。
海が震える。
グールたちの身体がびくりと跳ねた。
グールが負けじと咆哮を上げる。
「来ます!」
イリシアが叫んだ。
懐から水色の魔鉱石を取り出す。
パリン──。
握り潰された魔鉱石が足元へ散る。
瞬間、幾何学模様の魔法陣が地面いっぱいへ広がった。
「《アイス・フォートレス》!」
轟音。
地面から何枚もの巨大な氷壁が競り上がる。
人魚たちと近くに居たミレイユを包み込むように、半円状の要塞が完成した。
「アルちゃん!」
巨大な蜘蛛が返事をするように前脚を鳴らす。
「人魚族とミレイユをお願いします!」
続けて白馬へ。
「ホマム!」
白銀の馬が高く嘶いた。
次の瞬間だったアルガスティの腹部から白い糸が一斉に放たれる。
バシュッ!!
グールが5体まとめて宙へ吊り上げられる。
「ギャアアアア!!」
暴れる。
しかし蜘蛛の糸は切れない。
そこへホマムが突撃し、後脚が唸る。
ドゴォッ!!
一撃。
グールの身体が木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ。
ルークも笑う。
「頼もしすぎるだろ!」
「わたくしも参ります!──《戦女神の加護》!」
イリシアが一歩前へ踏み出した瞬間。
眩い銀色の光が戦場を駆け抜ける。
その光は一本の筋となって仲間たちへ降り注ぎ、彼女があらかじめ魔力を分け与えていた全員の身体を優しく包み込んだ。
鈍っていた身体が軽くなる。
握る武器は羽のように軽く、全身に力が満ちていく。
ヴィクトルが振り返り、口角を上げた。
「助かる!」
「ありがたいな!」
オーリンも槍を構え直し、大きく頷く。
「これなら押し返せる!」
「行くぞ!」
ジュリアンが真っ先に駆け出した。
閃く銀刃。
1体。2体。3体。
腐肉を断ち切りながら、次々とグールを斬り伏せていく。
だが、それでも数は減らない。
新たなグールが次々とトンネルから這い出してくる。
イリシアは静かに息を吸った。
「グールの弱点は聖魔法と炎魔法……」
彼女は右手を掲げる。
そして同時に左手もゆっくりと持ち上げた。
二つの異なる魔法陣が、それぞれの掌に展開される。
「聖魔法は得意ではありませんが──」
右手に紅蓮の魔法陣。
左手に翠色の魔法陣。
「七大元素の炎魔法ならば得意ですわ!」
次の瞬間、無数の炎槍が空中へ浮かび上がった。
「──撃ちなさい」
豪雨のように放たれた炎槍がグールの群れへ降り注ぐ。
だが、それだけでは終わらない。
左手で完成していたもう一つの魔法陣が輝く。
「風よ」
轟音。
暴風が炎を巻き上げる。
一本一本の炎槍が巨大な火柱となり、それらが渦を巻き始める。
「焼き尽くしなさい!」
炎の竜巻。
灼熱の暴風がグールの群れを飲み込み、腐敗した肉体を一瞬で灰へ変えていく。
熱風が戦場を吹き抜けた。
しかしその隙を狙い、一体のグールがイリシアへ飛び掛かった。
「甘いですわ」
足元から土壁が瞬時に隆起する。
グールの爪は岩壁に弾かれ、その一瞬の隙を逃さずヴィクトルの剣が横薙ぎに走った。
「はぁぁぁっ!」
「助かりますわ」
真っ二つになったグールが地面へ崩れ落ちる。
その直後、ミーナの背後へ別の一体が忍び寄る。
イリシアの視線だけが動いた。
「──《水弾》」
指先から放たれた水の弾丸。
乾いた破裂音。
グールの頭部が撃ち抜かれ、その身体は力なく倒れた。
「えっ……?」
ミーナが振り返った時には、もう敵は動いていない。
さらにルークとジュリアンが背中合わせで応戦していた。
その頭上、岩壁を這っていたグールが飛び掛かる。
「上だ!」
誰かが叫ぶよりも早く。
青白い雷光が空を裂いた。
「《雷槍》!」
轟音。
雷は一直線にグールを貫き、そのまま地面へ縫い付ける。
痙攣する間もなく、その身体は黒く焦げて動かなくなった。
一方、人魚の頭部を食べながら来ていたグールを、オーリンの槍が貫く。
転がった遺体の傍らには、真珠の髪飾り。
彼はそれを静かに拾い上げた。
その瞬間、背後から新たなグールが二体飛び掛かる。
「兄さん!」
サイラスが駆け込む。
振り返ったオーリンとサイラスの槍が、まるで呼吸を合わせたように同時に突き出された。
二本の槍が二体のグールを串刺しにする。
だがそれだけでは終わらない。
二人を囲むように、十数体のグールがじりじりと距離を詰め始める。
逃げ場はない。
その時だった。
「動かないでください!」
イリシアの声が響く。
空気が一変した。
頭上に無数の魔法陣が浮かび上がる。
「《氷雨》」
冷気が爆発する。
無数の氷柱が雨のように降り注ぎ、二人だけを避けるよう精密に着弾した。
氷はグールだけを正確に貫き、その身体を凍り付かせる。
凍結。
粉砕。
砕け散った氷片が明るくなり始めた空に反射し、まるで戦場に雪が舞ったかのようだった。
その光景に恐れをなしたのか。
数匹のグールが低いうめき声を上げ、踵を返して逃げ出そうとする。
「逃がしませんわ」
イリシアが静かに右手を掲げる。
地面が震えた。
次の瞬間、地面を突き破るように無数の蔦と茨が勢いよく伸びる。
蛇のようにうねりながらグールの足へ、腕へ、胴へと絡みつき、そのまま容赦なく締め上げた。
逃げ場を失ったグールたちは醜くもがき、裂けた口から悲鳴とも咆哮ともつかぬ声を漏らす。
「今です!」
「任せろ!」
真っ先に飛び出したのはヴィクトルだった。
流れるような足運びで、一歩踏み込み一閃。
銀の軌跡だけを残して剣が舞う。
首が飛び、返す刃でもう一体の首を刎ねる。
身を翻す勢いのまま他の個体の胴を薙ぐ。
まるで舞踏会で踊る貴公子のように優雅で、それでいて一切の無駄がない。
「はあっ!」
そこへジュリアンが踏み込む。
王宮騎士の家系に代々受け継がれてきた実戦剣術。
無駄な動きは一つもない。
鋭く、速く、確実に急所だけを断ち切る。
グールの身体が、騎士の剣によって次々と崩れ落ちていく。
「左を頼む!」
「承知!」
ヴィクトルが敵を崩し、ジュリアンが確実に仕留める。
二人は互いの動きを一切妨げることなく、呼吸を合わせるように剣を振るった。
数秒後。
茨に囚われていたグールは、一体残らず地に伏していた。
イリシアは静かに二人を見つめ、ふっと微笑む。
「お二人とも、お見事ですわ」
ヴィクトルは剣についた血を軽く払って笑う。
「君の援護が完璧だからだよ」
ジュリアンも剣を納めながら頷いた。
「敵を足止めしてもらえると、本当に戦いやすい」
そう、それはもはや、一人の魔導師が放つ魔法ではなかった。
七大元素を自在に操り、仲間を守り、敵を討ち、戦場全体を支配する。
まさに──魔法の嵐。
しかし、グールはまだ現れる。
次から次へと地下から這い出てくる。
「数が多い!」
ルークが叫ぶ。
オーリンも槍を振るう。
「時間を稼げ!頼む!」
その頃、氷壁の内側。
ミレイユは核へ両手を添えていた。
金色の光。
けれど弱い。
魔力が足りないせいで核が壊れない。
腕も指先も震える。
もう限界だった。
(届かない……)
その時、そっと背中へ温かな手が添えられた。
「!?」
振り返ると先程手を握ってくれた年老いた人魚だった。
優しく微笑んでいる。
「私たちの魔力を使ってください」
ミレイユは目を見開く。
老人は静かに頷いた。
「今の私たちに出来る恩返しです」
その隣、青年の人魚も手を重ねる。
「俺のも」
少女が続いた。
「わたしも」
幼い男の子が泣きながら笑う。
「ぎゅってしてくれて……ありがとう」
別の女性が言う。
「頑張って」
次々と手が添えられていく。
「負けないで」
「助けてくれてありがとう」
「支えるから」
「お願い」
「救って」
人魚たちの手がミレイユへ重なっていく。
一つ。
また一つ。
温かな魔力。
海のように穏やかな力。
優しい波。
命の温もり。
揺り籠のような安らぎ。
それら全てが、ミレイユの身体へ流れ込んでいく。
尽きかけていた魔力が満ちる。
いや、溢れていく。
(……行ける)
ミレイユは目を閉じた。
祝詞もない、歌も歌えない。
それでも胸の前で静かに手を組む。
祈る。
ただ、誰かの幸せを願うように。
その瞬間、眩い黄金の光が核を包み込んだ。
それは、春の日差しのように。
窓辺から吹き込むそよ風のように。
母親が子を抱くような……
どこまでも優しく、温かな光だった。
その姿は、まるで神話に描かれる聖母。
慈愛そのものだった。
核を覆う黒い瘴気が、ゆっくりと音を立てて溶け始める。
(あと少し……)
イリシアが振り返る。
氷の結界の中で、金色の光に包まれたミレイユの姿を見て、思わず息を呑んだ。
(……これが)
前世の記憶にあるゲームの主人公。
世界を救う聖女。
だが、目の前の彼女は違う。
歌でも祝詞でもない。
祈りだけで、ここまでの奇跡を起こしている。
(ゲームのミレイユより……)
イリシアは確信した。
(今のミレイユの方が、ずっと強い)
その瞬間──核の内部に、一本の大きな亀裂が走った。
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