第16話 眠りの大結界
夜。
長く降り続いた雨はようやく止み、雲間から覗いた月が街並みを淡く照らしていた。
ウィンディッシュの港。
人気のない波止場に、黒い外套を羽織った8人の姿が並ぶ。
潮風が静かに吹き抜け、濡れた石畳を撫でていく。
誰も口を開かない。
これから始まる作戦の重みを、それぞれが胸に刻んでいた。
そんな静寂を破ったのは、小さな羽音だった。
ぱたぱた、と闇を切り裂くように一羽の黒い小鳥が飛来し、イリシアの肩へと舞い降りる。
「お帰りなさい」
イリシアは優しく微笑み、小鳥の頭を撫でた。
そしてそっと瞳を閉じる。
使い魔と視界を共有する。
その瞬間イリシアの脳裏へ、次々と映像が流れ込んできた。
──倉庫。
──怒号。
──床へ叩きつけられる木箱。
「役立たずどもが!!」
怒鳴り声が響く。
男達が肩を震わせながら頭を下げている。
その中央に立つ、一人の男。
豪華な外套。
鋭い眼差し。
苛立ちを隠そうともせず机を蹴り飛ばす。
「たかが一匹の鯨族も捕らえられんとは!」
「申し訳ありません!」
「言い訳は聞きたくない!」
怒鳴り散らす男。
その瞬間だった。
男の瞳が一瞬だけ黒く染まり、白目と黒目が反転する。
イリシアの瞳がゆっくり開かれる。
「……。」
ヴィクトルが尋ねた。
「何が見えた?」
イリシアは静かに答える。
「オーリン様を取り逃がした件で、部下達を激しく叱責している男性がおりました……その方の瞳が、一瞬だけ黒白反転しました」
オーリンが低く唸る。
「魔族か」
「断定はできません」
イリシアは首を横へ振った。
「ですが、現状もっとも怪しい人物です」
ルークが肩を回す。
「なら、そいつが黒幕候補ってわけだ」
「ええ」
イリシアは再び小鳥へ意識を向ける。
さらに情報が流れ込む。
中央広場。
人魚と少女が手を取り合う銅像。
小鳥は近付こうとする。
だが翼が震えた。
苦しそうに旋回し、それ以上近寄れない。
「……?」
イリシアが小さく眉を寄せる。
「どうしましたの?」
小鳥から伝わる感覚。
嫌悪。
拒絶。
重苦しい魔力。
まるで濁った泥水へ足を踏み入れたような不快感。
イリシアは静かに目を開いた。
「中央広場です」
全員の視線が集まる。
「街のシンボルでもある、人魚族と少女が手を取り合う像。その周辺から、とても嫌な魔力を感じるようで、小鳥が近づくのを嫌がっておりますわ」
ヴィクトルが静かに頷く。
「最優先調査地点だね」
「ええ、おそらく何かがあるかと」
イリシアも頷いた。
静かな緊張が場を包む。
イリシアは深く息を吸い、全員を見渡した。
「それでは、作戦を開始いたします」
その言葉と共に、黒紫色の魔鉱石を取り出した。
全部で六つ。
淡く紫色に輝く鉱石。
「皆様に今からわたくしの魔力を分け与えます」
一人ずつ手を重ねていく。
ヴィクトル
ルーク
ミーナ
ジュリアン
ミレイユ
オーリン
サイラス
それぞれの手の甲へ、小さな魔法陣が浮かび上がった。
「結界内では、この魔力を持つ者だけが通常通り行動できます。違和感がございましたら、すぐに知らせてください」
全員が静かに頷いた。
イリシアは魔鉱石を三組へ渡す。
「ルーク」
二つ。
「はいよ」
「オーリン様」
二つ。
「任せろ」
「サイラス様」
二つ。
「承知した」
イリシアは地図を広げた。
「この六ヶ所へ設置してくださいませ。街を囲むように地面に軽く埋めてくださればいいですわ。設置が完了次第、使い魔へお知らせください」
ルークが笑う。
「じゃあ行ってくる」
「お気を付けて」
三方向へ散っていく影。
夜の街へ吸い込まれるように消えていった。
残ったのは、
イリシア
ヴィクトル
ジュリアン
ミレイユ
ミーナ
ミレイユがイリシアの隣へ立ち、小さく袖を握る。
イリシアは優しく微笑み返した。
「約束、覚えておりますわね?」
ミレイユは力強く頷いた。
『絶対離れません』
その文字にイリシアも安心したように微笑んだ。
◇
やがて。
触媒の設置を終えた一羽目の使い魔から報告が入る。
『設置完了』
続いて二羽目。
『こちらも完了』
さらに三羽目。
『完了しました。問題ありません』
全ての配置が揃う。
イリシアは前へ出て、静かに目を閉じる。
全員の配置を確認すると、小さく息を吸った。
「──それでは、始めます」
胸の前で両手を重ねる。
足元に浮かび上がる巨大な魔法陣。
銀色の魔力が波紋のように地面へ広がり、六つの触媒が一斉に共鳴を始める。
「《眠りの大結界》──展開」
瞬間。
六本の光柱が夜空へ向かって立ち上った。
それらは天高く伸びたのち、ゆっくりと互いを繋ぎ、一枚の半球状の結界へと姿を変える。
透明な膜が街全体を優しく包み込み、淡い銀色の光が雨上がりの街を照らした。
やがて結界の内側へ、柔らかな眠気が静かに降り注ぐ。
街の住人たちは一人、また一人とその場で眠りへ落ちていった。
広場で見張りをしていた男。
酒場の椅子へ腰掛けていた男。
路地裏を巡回していた男。
皆、抵抗する間もなく静かに瞼を閉じていく。
イリシアは術式の維持へ集中する。
その瞬間だった。
──ザバァァァァッ!!
港の方角から大きな水柱が立ち上る。
海水を纏ったまま、一人の大男が岸壁へ飛び乗った。
紺色の長髪を濡らしたまま歩いてくるその姿に、ジュリアンが安堵したように笑う。
「戻ったか」
オーリンは槍を肩へ担ぐと、イリシアの前まで歩み寄った。
「触媒の設置は完了した。ここからは俺が術者の護衛を務める」
「よろしくお願いいたしますわ」
イリシアは目を閉じたまま微笑み小さく頷く。
オーリンはそのままイリシアの前へ立ち、周囲を鋭く見渡した。
ジュリアンも反対側へ回り込む。
二人の間へミレイユがそっと寄る。
これで術者の守りは整った。
イリシアは静かに口を開く。
「皆様、予定通り調査を開始してくださいませ」
「了解」
ヴィクトルが短く頷く。
「行ってくる」
ミーナも力強く拳を握った。
「任せてください!」
イリシアは二人へ視線を向ける。
「ヴィクトル殿下とミーナ、よろしくお願いいたしますわ」
「承知した」
「はいっ!気を付けます!」
ヴィクトルとミーナはそれぞれ頷くと、その場を駆け出した。
一人は中央広場へ。
もう一人は倉庫街へ。
それぞれの影には、イリシアの使い魔が静かに寄り添っている。
その姿を見送りながら、イリシアは静かに息を吐いた。
(皆様……どうかご無事で)
彼女は再び意識を術式へ集中させる。
眠りの大結界は、まだ始まったばかりだった。
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