第4話 静寂の港町
夜明け前。
灰色の雨雲が空を重く覆い尽くし、冷たい雨粒が街道を容赦なく濡らしていた。
蹄の音だけが、静寂の世界に響き渡る。
ルークが手綱を強く握り、借り受けた馬を駆る。
その後ろにはミーナ。
二人とも、ほとんど口をきかなかった。
潜入任務。
いつものことだ。
だからこそ、余計な会話は必要ない。
雨音と馬の息遣いだけが、二人の間を流れていた。
やがて──
東の空がわずかに白み始め、薄明かりが世界を淡く染めていく。
目的地。
海沿いの共生都市、《カント・マリス》。
その入口へと馬が辿り着いた。
ルークは周囲を素早く確認し、小さく頷いた。
「ここからだ」
「うん」
二人は人気のない林の中に馬を繋ぎ、街へと向かった。
歩きながら、ミーナが懐に手を入れる。
取り出したのは、金色に輝く小さな魔導具──懐中時計型の姿くらまし装置だった。
ルークも同じ物を取り出す。
二人は目配せを交わした。
ミーナが小さくカウントする。
「せーの」
つまみを右へ二回転半。
左へ一回転。
そして──
カチリ。
中央を押し込む。
静かな起動音が響いた瞬間、二人の姿が空気の中に溶けるように薄れ、完全に消え去った。
王国諜報部が極秘に使用する、高性能潜入魔導具。
目視による発見は極めて困難だが、完全無欠ではない。
嗅覚に優れた動物には通用しにくい。
物理的な接触があれば輪郭が露呈する。
そして何より──影だけは消えない。
だからこそ、暗闇、路地裏、人混みといった環境を巧みに利用する必要があった。
「予定通り」
ルークが小声で囁く。
「左右から分かれる」
「了解」
交差点で二人は別行動を取った。
ルークは港側へ。
ミーナは住宅街側へ。
互いの姿はもう見えない。
任務、本格開始だった。
◇
街は、静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
明け方だから──そう考えれば説明はつく。
だが、それにしても。
人の気配が、まるでない。
家々の窓は全て固く閉ざされ、灯り一つ漏れていない。
雨に濡れた石畳だけが鈍く光り、灰色の景色がどこまでも続いていた。
まるで。
街全体が息を潜め、死んだように眠っているかのようだった。
ルークは歩きながら、周囲へ鋭い視線を走らせる。
店も、民家も、酒場も、漁具店も──どこにも動きがない。
不自然すぎる。
一方、住宅街を進むミーナも、同じ違和感に胸をざわつかせていた。
(静かすぎる……)
眠っている時間だからかと思われるが、それにしても人気配が全くと言っていいほどない。
港町ならば漁に出る漁師の姿が見えてもいい頃だが、それすら見えない。
聞こえるのは、雨音だけ。
◇
雨雲の隙間から、ようやく朝日が弱々しく差し込み始めた頃。
ルークは路地裏の影に身を潜め、壁に映る自分の影をできる限り小さくしながら通りを観察した。
……誰も来ない。
ミーナも別の路地から街を窺い、同じ結論に至っていた。
(何かある)
この街に、何かが起きている。
二人は別々の場所にいながら、まったく同じ直感を抱いていた。
◇
さらに時間が経過した。
本来なら土産物屋、食堂、市場が次々と開き、街が活気づく時間帯だ。
しかし、どこも開かない。
人が現れない。
海沿いの港町だというのに、漁船の一艘すら動いていない。
ルークは息を潜めながら、街の中心部へと慎重に進んだ。
中央広場。
資料に記されていた通り──人魚族の少女と人間の少女が手を取り合う像が、共生の象徴として鎮座するはずの名所。
そのはずだった。
だが、広場に辿り着いた瞬間、ルークは思わず足を止めた。
「……っ」
人がいた。
大勢。
ようやく見つけたこの街の住民たち。
しかし、誰も笑っていない。
屈強な男たちばかりだった。
彼らは銛を担ぎ、縄を抱え、刃物を腰に差している。
まるで狩りへ向かうような、殺気立った装備だった。
その視線は、広場中央へと集中している。
木箱の上に、一人の男が立っていた。
年齢は四十前後か。
濡れた外套を羽織り、群衆を見下ろしている。
男は拳を高く掲げ、声を張り上げた。
「いいか!」
低い、しかしよく通る声が雨の広場に響き渡る。
「我々の収入源は──人魚だ!」
「「「おおっ!!」」」
男たちが野太い声で応える。
「奴らを生け捕りにしろ!」
「「「おう!!」」」
「鱗を剥ぎ取れ!」
「「「おう!!」」」
「髪を引き抜け!」
「「「おう!!」」」
「腹を裂け!」
「「「おう!!」」」
「そして!」
男は口角を不気味に吊り上げ、目を細めた。
「一滴残らず血を集めろ!!」
「「「おおおおおおおお!!!!」」」
歓声。
歓喜。
熱狂。
そこに罪悪感の欠片もない。
まるで、血に塗れた祭りが始まるかのような狂気。
その瞬間だった。
ルークの視線が、演説する男の顔を捉えた。
「……!」
息を呑む。
男の目。
その瞳が、ゆっくりと黒く染まっていく。
白目と黒目が反転し、深淵のような漆黒へと変わる。
全身を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
(あの目……!)
ルークは文献でしか見たことのない記述を思い出した。
魔族に関する古い書に記されていた特徴。
──魔族に精神を侵された者。
──あるいは、魔族そのもの。
黒白反転の瞳。
ルークの喉が、ごくりと鳴った。
雨音だけが響く広場で、彼は誰にも聞こえないほど小さく、震える声で呟いた。
「……魔族、なのか……?」
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