第1話 灰色の海と、小さな保険
アル=ジャウハル王国を発ってから、およそ一週間。
灼熱の砂漠はいつしか背後に遠ざかり、乾いた風は次第に湿り気を帯び始めていた。
道端に小さな草花が顔を覗かせ、ぽつり、ぽつりと森が増えていく。
やがて街道は海沿いへと変わり、潮の香りが風に混じるようになった。
冬。
とはいえ、この南方の地は一年を通じて温暖で知られている。
白い海鳥が舞い、青い海が輝く──そんな景色を想像していた一行だったが。
「……雨ですわね」
馬車の窓に頰杖をついたイリシアが、小さくため息をついた。
窓ガラスを無数の雨粒が伝い落ち、灰色の空と灰色の海が水平線まで続いている。
遠くの景色は霞み、海鳥の姿すら見えない。
一行が目指すのは、海辺の共生都市『カント・マリス』。
人魚族、鯨族、そして人間──三種族が長年、互いに支え合いながら暮らす美しい港町だ。
深海から採れる真珠や色鮮やかな珊瑚、希少な海底鉱石を人魚族がもたらし、人間たちは果物、布地、精巧なガラス工芸品を提供する。
人魚たちは美しい歌声で人々を癒やし、子供たちと遊び、時には溺れた船乗りを救う。
一方、屈強な鯨族は海の守護者として、海賊や密猟者から町を守り続けている。
ゲームでも人気の観光地であり、イリシアが以前から一度訪れてみたかった場所でもあった。
「ミレイユ様に真珠や珊瑚の髪飾り、きっとよく似合いますわ」
そう提案したのはイリシア自身だった。
旅程を少し変更して立ち寄ることに皆も快く賛成してくれた。
だからこそ……
「……まさかこの雨とは思いませんでしたわ」
ぽつり。
隣に座るミレイユも、窓の外を静かに見つめていた。
彼女は筆談帳を開き、さらさらと文字を綴る。
『私に気を遣わなくても大丈夫ですよ』
イリシアはふるふると首を振った。
「いいえ。せっかくですから、綺麗な海と人魚の歌を聞いていただきたかったのですわ。真珠の輝きも、珊瑚の色合いも……」
少しだけ肩を落とす。
◇
目的地手前のウィンディッシュの街に到着した一行は、比較的大きな宿のロビーで雨宿りをしていた。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立て、紅茶の香りとアフタヌーンティーの甘い匂いが漂う。
しかし、誰よりも元気なはずのミーナが、テーブルに突っ伏してぐったりしていた。
「うぅ〜……あたしも早くエレナにお土産を買いたかったのにぃ……こんなに雨が強いと動けませんよねぇ……」
イリシアも紅茶を優雅に口に運びながら頷く。
「エレナには沢山お土産を買わないといけませんわね。小鳥で先に届けてあげましょうかしら」
その瞬間、ミーナが勢いよく顔を上げた。
「ダメですよ!」
「え?」
「それやったらエレナの居場所がすぐバレちゃいますって!」
「あ」
イリシアが固まる。
「……そうでしたわね。単独行動用のリス型のエルナトも預けてしまいましたし……今、どのような状況か分かりませんもの」
「へぇーあの子、エルナトって言うんですか?」
「ええ、わたくしが命名したんですの」
ルークがクッキーを齧りながら笑った。
「でもよ、お嬢の優秀な使い魔が付いてるんだろ? 大丈夫なんじゃねぇの?」
イリシアは当然のように胸を張った。
「もちろんですわ。なんてったって、あの子は優秀ですもの」
ヴィクトルやジュリアンも自然と耳を傾ける。
イリシアは平然と続けた。
「もし本当に危険な状況になりましたら、本気を出したエルナトがエレナを丸ごと飲み込んで、そのままわたくしの所へ転移するよう命令してありますわ」
…………。
ロビー全体が、一瞬で静まり返った。
「…………え?」
ミーナが瞬きを繰り返す。
ジュリアンが固まる。
ルークは口に含んだ紅茶を危うく吹き出しそうになった。
「……飲み、込む?」
ヴィクトルが静かに聞き返した。
「ええ」
イリシアは不思議そうに首を傾げる。
「空間収納能力がありますもの。正確には高次元空間を頰袋代わりに利用して──」
「そこじゃない」
ヴィクトルが即座にツッコミを入れる。
「リスって、人一人飲み込めるのか?」
「できますわ」
「…………」
「命令してありますもの」
「…………」
「わたくしも以前に入ったことがありますので、安全ですわ」
「…………」
ルークがぽつりと呟いた。
「……リスって何だっけ」
ジュリアンも腕を組み、真顔で頷く。
「俺も分からなくなってきたというかサラッと自分も入ったって言ったな」
ミーナは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「いやいや、お嬢様の『普通』は普通じゃないですって!」
イリシアは目をぱちぱちさせた。
「そうなのです?」
「そうなんです!」
「知らなかったですわ……」
ロビー中に、明るい笑い声が広がった。
そんな賑やかな空気の中、ミレイユだけは小さく口元を押さえ、肩を震わせていた。
声は出せないが、彼女は確かに笑っていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
表情が柔らかくなり、瞳に光が戻りつつある。
その様子に気づいたイリシアは、優しく微笑み返した。
(……よかった。少しずつで構いませんわ。笑える日が増えていけば、それだけで十分です)
窓の外では、冷たい雨が依然として降り続いていた。
灰色の海は荒れ、水平線は霞んでいる。
だが、誰もまだ知らなかった。
その雨の向こう、目的地であるカント・マリスでは、人魚族と鯨族を巻き込む、新たな事件が静かに幕を開けようとしていることを──。
始まりました!第3部!
旅路はまだまだ続きます!最後までお付き合い頂きますと嬉しいです!
本作品はカクヨム、アルファポリスにて同時投稿をしております。
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