第20話 天才の不満
その夜。
アル=ジャウハル王城・小宴会場。
ラシード王の招きによる、ささやかな晩餐会が開かれていた。
初日のような華やかな公式晩餐ではなく、使節団の面々だけを招いた親しい内輪の食事会だ。
長い白木の卓には、香辛料の豊かな香りが立ち上る料理が次々と並べられ、柔らかなランプの灯りと月光が室内を優しく照らしている。空気は温かく、葡萄酒の芳醇な香りが漂っていた。
ラシード王は杯を傾けながら、紫の瞳を細めて笑った。
「それで、イリシア嬢」
視線が銀髪の少女に向けられる。
「例の杭──あの呪具の全容解明は、どこまで進んだのかな?」
その問いに、イリシアはわずかに肩を落とした。
「……いえ、まだ4割弱といったところでしょうか」
一瞬、卓を囲む者たちの間に静寂が落ちた。
しかし本人は、心底から残念そうな表情を浮かべている。
「杭の欠片だけでも手元にあれば、解析速度が大幅に上がると考えていたのですが……」
その瞬間、横から即座に声が飛んだ。
「危険だからダメだよ」
即答。
ヴィクトルだった。
もはや条件反射のような速さで、イリシアが言い切る前に言葉を被せている。
イリシアは不満げに頰を膨らませ、横目で婚約者を睨んだ。
「この様子ですので……」
「諦めてね」
「うぐ……」
ラシード王が思わず吹き出した。
「はははは!」
豪快な笑い声が、宴会場に響き渡る。
「待て待て、君は確か一度その呪具を実際に解析したんだろう?それで4割だけなのか?」
純粋な驚きと疑問が込められた問いだった。
イリシアは小さく頷き、葡萄酒に口をつける前に答える。
「ええ、ですが一度解析した術式を完全再現するのは、さすがに至難の業ですわ」
「ほう?どういうことだ?」
ラシードが興味深そうに身を乗り出す。
イリシアは少し考え、皆に分かりやすい例を挙げた。
「そうですわね……例えばラシード陛下が、民衆に向けて重要な演説をされるとしましょう」
「ふむ」
「多くの聴衆は、その内容を大まかに覚えられるでしょう。ですが」
イリシアは細い指を一本立てた。
「術式の完全再現、解明とは、その演説の内容を一言一句違えず、声の抑揚、息継ぎのタイミング、身振りの一つ一つ、表情の微妙な変化、視線の動きまで、全てを完璧に再現することと同じですわ」
食卓が再び静まり返った。
ラシード王が目を丸くする。
「……なるほど。それは確かに、途方もない難事だな」
「はい」
イリシアは静かに続けた。
「今回解析した呪具には、基礎術式も含めておそらく2万を超える複雑な回路が組み込まれておりました」
「2万!?」
ジュリアンが思わず声を上げ、目を見開いた。
「ええ」
イリシアは小さくため息を吐く。
「それを空で全部を覚えられるほど、わたくしは優秀ではありませんから……」
沈黙が落ちる。
数秒後、ルークが真顔で言った。
「いや、十分すげぇよ」
「え?」
「いやいやいや、普通の魔導師なら解析自体ができねぇぞ、あんなモン」
ジュリアンも呆れたように肩をすくめた。
「そうだな。4割再現ってことは、8千以上の術式を記憶・再構築してるってことだろ?十分すぎる成果だよ」
ミーナも勢いよく頷く。
「そうですよ!天才の基準が高すぎるんですって!」
隣に座るミレイユも、こくこくこくと激しく首を縦に振っていた。
その必死さが、かえって愛らしい。
イリシアは困惑した表情で皆を見回した。
「そうなのですか?」
「そうだよ」
ヴィクトルが即答し、優しく微笑む。
「むしろ4割も再現できていることの方が異常だ。普通なら一割もいかない」
「ですが……基礎部分も含めての数字ですので」
「十分だよ、イリシア」
「そう……でしょうか……」
完全に包囲され、イリシアは珍しく言葉に詰まった。
ラシード王は苦笑しながら杯を置いた。
「なるほどな。今ようやくよく分かったよ」
「何がですの?」
「君が『天才』と呼ばれる所以だ」
イリシアが首を傾げる。
ラシードは肩を竦め、楽しげに言った。
「普通の人間なら、難しい問題を100点満点で40点取れたら『上出来だ』と喜ぶ。だが君は、100点以外認めていない。だからこそ、あそこまで高みを目指せるんだろうな」
珍しくイリシアの頰が、わずかに赤らんだ。
視線を少し逸らし、小さな声で呟く。
「……そう、かもしれませんわね」
ラシード王は穏やかに笑った。
「ケチをつけるような言い方になってしまったな。すまない」
「いいえ」
イリシアは首を振り、本当に心底残念そうに遠い目をした。
「わたくしだって、ちゃんと完璧に覚えていたかったのですけれど……自分の力量の無さが、不甲斐ないですわ……」
深いため息。
そして、再びぼそりと。
「はぁ……ここに呪具の……」
「ダメ」
ヴィクトルが即答。
「まだ最後まで言っておりませんのに!?」
「どうせ『後でこっそり取りに戻ろう』とか考えただろ?」
「考えておりましたけど!」
「ダメ」
「うぐ……」
「君の兄君に、ちゃんと報告するよ」
「うぅ……」
「ダメなものはダメ」
完全なる敗北宣言だった。
その様子を見て、ラシード王が腹を抱えて大笑いし始めた。
ミーナがくすくす笑い、ルークが肩を震わせ、ジュリアンまで珍しく声を上げて笑う。
ミレイユも口元を押さえ、優しく微笑んでいた。
そしてイリシアだけが、頰をぷっくり膨らませ、不満げにフォークを突き刺すのだった。
水龍の脅威を乗り越えた夜に、使節団の面々は久しぶりの和やかな笑い声に包まれていた。
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