第19話 天才魔導士と天然王子
アル=ジャウハル王国・王城の一室。
水龍騒動の翌日。
使節団は明日の出立を控え、それぞれが慌ただしく準備に追われていた。
ジュリアンは補給品リストの最終確認を。
ルークとミーナは馬車の車輪や軸の整備を。
ヴィクトルはラシード王との最終的な外交打ち合わせに臨んでいた。
そして──もちろん、イリシアだけは完全に別行動だった。
「……」
「…………」
「…………………」
部屋は、もはやゲストルームの面影がなかった。
机の上はもちろん、床、椅子、応接用のテーブル、窓辺の棚に至るまで、紙とインク瓶が雪崩を起こしたように散乱している。
壁際に積み上げられた本の山はすでに腰の高さになり、まるで小さな魔術研究所と化した空間だった。
イリシアは机に突っ伏すようにして、夢中になってペンを走らせ続けていた。
さらさらさらさら
「違いますわね……ここは逆位相で繋ぐべき……」
さらさらさらさらさら
「でもそれだと浄化効率が2.8%低下する……ならば補助術式を三重展開して……」
さらさらさらさらさらさら
完成した紙を、後ろへぽいっと放り投げる。
次の瞬間にはすでに新しい羊皮紙を引き寄せ、インクを付け直している。
紙吹雪のように紙が舞う。
床に落ちた紙が、次々と積み重なっていく。
その様子を、少し離れたソファに座ったミレイユが、静かに見守っていた。
「……」
ぽいっ。
新しく飛んできた紙を、ミレイユは素早く拾い上げる。
丁寧に皺を伸ばし、端を揃え、部屋の隅に設けた「完成分」の山へと重ねていく。
また飛んでくる。
拾う。
揃える。
置く。
戻る。
完全なるお世話係と化していたが、彼女の表情は穏やかで、どこか嬉しそうだった。
誰かの役に立てること。
特に、イリシアのような天才的な人物の傍で、小さな支えになれることが、今のミレイユにとってはかけがえのない喜びだった。
紅茶の入ったカップが空になっていることに気づき、ミレイユは慌てて立ち上がった。
「っ……」
ティーポットにお湯を注ぎ、新たな紅茶を淹れる。
香りの良い蒸気を立てながら、そっとイリシアのすぐ横に置いた。
しかしイリシアは、まるで気づいていない。
視線は紙の上に釘付け。
唇が微かに動き、術式の計算を呟き続けている。
ミレイユは困ったように小さく首を傾げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
それでも十分幸せだった。
◇
昼近く。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「入るよ」
扉を開けて入ってきたのはヴィクトルだった。
部屋の惨状を一目見た瞬間、彼は盛大にため息をついた。
「やっぱりか……」
予想通り、といった苦笑が浮かぶ。
紙の山。
魔力インクの匂い。
そして机に張り付くように集中する銀髪の婚約者。
見慣れた光景だった。
ミレイユが慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ、ミレイユ嬢」
優しい、穏やかな声。
ミレイユはほっとしたように頷き、控えめに微笑んだ。
その間も、イリシアは全く反応しない。
「……」
「……」
「……」
完全に自分世界に旅立っている。
ヴィクトルは苦笑しつつ近づき、床に散らばっていた紙を一枚拾い上げた。
「どれどれ……」
数秒後。
「全然分からないな」
即答だった。
多重展開式、魔力変換回路、浄化触媒の位相調整──専門用語の嵐に、さすがの王子も白旗を掲げる。
しかし彼は、興味深そうに何枚か目を通した後、ふと視線を上げた。
目の前にいる銀髪の乙女。
少し寝不足で乱れた前髪。
それでも瞳は生き生きと輝き、ペンを走らせる指先は楽しげに動いてる。
その姿が、愛おしくてたまらなかった。
だから、本当に自然に。
何気なく。
ぽん、と頭に手を置いた。
さらさらの銀髪を、優しく撫でる。
なでなで。
ぴたり。
イリシアのペンが、突然止まった。
部屋に静寂が落ちる。
ミレイユがヴィクトル用に紅茶を入れながら、静かになった部屋に気づいて、目をぱちくりさせる。
ヴィクトルは気にする様子もなく、優しく撫で続ける。
「ふふっ」
思わず笑みが零れた。
その瞬間、イリシアの肩がびくっと震えた。
数秒の沈黙。
そして、ぎぎぎぎぎ……という、錆びついた人形のような動きでゆっくり振り返る。
耳まで真っ赤。
首筋まで真っ赤。
完全に茹で上がった蛸のような顔だった。
「で、でででででででで殿下!?」
「うん?」
「なななななな何をなさっておおおおりますの!?」
「頭を撫でてる」
「そっ!それは分かりますわ!!」
ミレイユがびくっと肩を震わせ、紅茶のカップを危うく落としそうになる。
ヴィクトルは平然としたまま、さらになでなでを続ける。
「嫌だった?」
「い、嫌とかそういう次元の問題ではありませんわ!!」
「そう?」
「そうですわ!!」
「でも君、集中すると周りが見えなくなるから。ちゃんと休憩をしないと」
「だからといって人前で頭を撫でる理由にはなりませんでしょう!?」
「なると思うけど」
「なりません!!」
即答だった。
ヴィクトルはくすっと笑う。その反応が可愛くて、ついからかってしまう。
イリシアはさらに顔を赤くし、声を震わせた。
「だいたい婚約者とはいえ、人前で……!」
はっと気づく。
視線の先──ミレイユが、紅茶を運びながら口元を隠して小さく笑っている。
目が合う。
「ミレイユ様まで!?」
ミレイユがにこにこしながらヴィクトル用の紅茶を差し出す。
ヴィクトルが微笑んで受け取り、二人が自然に微笑み合う。
その光景を見たイリシアは、ついに耐えきれなくなった。
「もうっ!!!!!」
部屋中に、恥ずかしさと怒りと照れが入り混じった叫び声が響き渡った。
◇
廊下を歩いていたジュリアンが、足を止めた。
「……また何かあったな」
ルークがにやりと笑う。
「絶対お嬢の声だろ」
ミーナも頷いた。
「ヴィクトル殿下の仕業に決まってますよー」
三人とも、すっかりこの流れに慣れきっていた。
◇
部屋の中では。
真っ赤なままプンプンしているイリシア。
楽しげに笑うヴィクトル。
くすくすと優しく笑うミレイユ。
水龍騒動を無事に乗り越えた使節団に、久しぶりの穏やかで温かな時間が流れていた。
そして誰もまだ知らない。
明日から始まる新たな旅路が、彼らをさらに大きな運命の渦へと導いていくことを──。
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