第18話 募る苛立ち
ルヴァン王国・王都大聖堂、東翼第三貴賓室。
柔らかな午後の光が、ステンドグラスを通って床に色鮮やかな模様を落としていた。
聖女クラリッサは窓辺に立ち、外を眺めていた。
修道士たちが忙しなく行き交い、庭師が花壇の手入れをし、遠くで聖騎士の訓練の声が微かに聞こえる。
いつも通りの大聖堂の風景だ。
だが彼女は、その光景をただただ苛立たしく感じていた。
「……」
窓枠を握る指に、知らず知らずのうちに力がこもる。
ギシリ、という乾いた音が木枠から漏れた。
「どうして……こんなことに」
小さく、吐き捨てるように呟く。
断罪劇から約2週間。
その2週間で、クラリッサを取り巻く全てが変わっていた。
王都内を自由に歩くことは許されず、貴族たちとの私的な交流は全面禁止。
教会の公式行事への出席すら制限され、常に監視の目が付きまとっている。
そして何より鬱陶しいのは、毎日繰り返される事情聴取だった。
コンコン。
扉が控えめに叩かれる。
クラリッサの眉がぴくりと動いた。
「何ですか」
声に棘が混じる。
扉が開き、王国騎士が一人、入室してきた。
銀色の胸当てに、国王直属の徽章が輝いている。
「クラリッサ殿、本日も確認のためにお伺いしました。断罪劇当日について、もう一度──」
「ああもう!」
クラリッサは思わず声を荒げていた。
騎士がほんの少しだけ目を瞠る。
彼女自身も、わずかに驚いた。
今までの自分なら、人前でこんな声は出さなかったはずだ。
聖女らしく、穏やかに微笑み、優しい言葉で相手を包み込むように対応していたはずなのに。
だが今は、無理だった。
どうしようもなく、腹が立つ。
「昨日も答えましたよね?一昨日も、その前も!何回同じことを聞けば気が済むんですか!?」
騎士は表情を変えず、淡々と答える。
「職務ですので。申し訳ありませんが、もう一度詳しくお聞かせ願います」
「職務職務って!それだけが口癖なの!?」
ガンッ!
思わず机を叩いた。大きな音が部屋に響き渡る。
騎士は動じることなくクラリッサを見据える。
部屋に重い静寂が落ちる。
クラリッサは肩で荒く息をしていた。
胸が苦しい。
頭の奥が熱い。
指先が小刻みに震える。
どうしてこんなにも苛立つのか、自分でも分からなかった。
「……失礼しました」
無理やり笑顔を作ろうとするが、頰が引きつるだけだった。
騎士は表情を崩さないものの、明らかに引いているのが分かった。
それがまた、胸の奥をさらに掻き毟る。
事情聴取は、結局いつものように終わった。
騎士が退出し、扉が閉まる音が響いた瞬間、クラリッサは机の上の花瓶を掴み上げていた。
「鬱陶しいっ……!」
勢いよく壁へ投げつける。
パリンッ!
高価な陶器が砕け散り、水が床に飛び散り、色鮮やかな花々が無残に転がった。
呼吸が荒い。
胸の奥がざわつき、収まらない。
何もかもが気に入らない。
部屋も、騎士も、教会も、王都も──全てが。
◇
その日の夕暮れ。
クラリッサは気分転換に自室から出て、静かな回廊を歩いていた。
前方から、数人の修道女たちが歩いてくる。
彼女たちはクラリッサに気付き、足を止めた。
小さく頭を下げる。
しかし、すぐに目を逸らし、壁際をすり抜けるようにして急ぎ足で去っていった。
以前とは明らかに違う視線だった。
かつては憧憬と尊敬に満ちた、輝くような目だった。
今は、警戒と、わずかな畏怖。
そして、明確な距離を置く冷たさがあった。
「……」
クラリッサは立ち止まり、拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
その痛みすら、今は奇妙に心地よかった。
「何なのよ……」
誰もいない廊下で、独り呟く。
「私が何をしたっていうの?」
脳裏に、銀色の髪と澄んだ青い瞳が浮かぶ。
イリシア・ヴァルモンド。
「全部、あいつのせい……!」
声が震えた。
そうだ、あいつが邪魔をした。
あいつが全てを台無しにした。
あいつさえいなければ、私は今頃──
そこで、思考がふと止まる。
(私は……何を望んでいたの?)
王妃の座か。
聖女としての名誉か。
教会と王家を牛耳る権力か。
分からない。
胸の奥だけが、焼けるように熱い。
満たされない渇きが、じわじわと広がっていく。
何かが足りない。
何かが、もっと欲しい。
でも、それが何なのか、言葉にできない。
クラリッサは壁に背を預け、深く息を吐いた。
しかし、苛立ちも、不安も、焦燥感も、まったく収まらない。
むしろ、胸の奥で何かが蠢き、目を覚まそうとしているかのように、どんどん大きくなっていく。
◇
同じ頃、大聖堂最上階・枢機卿執務室。
バルタザールは、机に並べられた報告書に目を通していた。
そこには、クラリッサのここ数日の様子が詳細に記されている。
・苛立ちの増大
・情緒の不安定化
・ 騎士に対する怒鳴り声
・室内での物損行為(花瓶破壊、鏡のひび割れなど)
以前の彼女には見られなかった、明らかな変化。
だがバルタザールは、眉一つ動かさなかった。
「……少々早いな」
むしろ予想通り、といった様子で小さく頷く。
報告書を閉じ、窓の外に広がる夜の王都を眺めた。
「本来ならば、もう少し緩やかに進行するはずだったのだが」
原因は明白だった。
ミレイユ──本物の聖女の消失。
長年、彼女の力と存在を「触媒」として利用してきたクラリッサへの影響は、想像以上に大きかった。
バルタザールは椅子にもたれ、指を組む。
「依存が、思ったより深かったか」
低い声は、苛立ちでも焦りでもなく、ただ冷徹に事実を分析するものだった。
「代替品では、やはり完全には補えぬか」
しばしの沈黙の後、男の唇がゆっくりと弧を描いた。
「仕方あるまい」
その笑みは冷たく、人間離れした響きを帯びていた。
「応急処置を施すとしよう」
誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟く。
本来ならまだ先の予定だった。
もっと時間をかけて、彼女の精神を丁寧に染め上げるつもりだった。
だが予定は狂った。
ならば調整するだけだ。
多少の副作用には目をつぶる。
最終的な結果に変わりはない。
「もう少しだけ耐えろ、クラリッサ」
窓ガラスに映る自分の瞳の奥で、赤黒い光が一瞬、妖しく揺らめいた。
「お前はまだ、私の計画に必要だ」
◇
その夜。
自室のベッドで眠れずにいたクラリッサは、まだ知らなかった。
自分の胸の奥で膨れ上がる焦燥感も。
理由のない激しい怒りも。
満たされない、底知れぬ渇きも。
全てが、誰かによって長年、仕組まれ、育てられてきたものだということを。
やがてその渇きは、形を変えていく。
怒りは飢えへ。
焦燥は強烈な欲求へ。
そして、聖女の仮面の下に潜む「何か」が、ゆっくりと、確実に目覚めようとしていた──。
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