第17話 消えた聖女
時は少し遡る。
ルヴァン王国──王都大聖堂、最深地下区画。
イリシア達が東方交易使節団として国を発ってから、およそ10日が経過していた。
陽の光など一度も届いたことのない、石と闇が支配する回廊を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
バルタザール枢機卿。
保守派の頂点に君臨し、教会の実権を長年握り続けてきた老獪な男である。
白い法衣の裾が石床を擦り、杖の先が規則正しく地面を叩く乾いた音が、冷たい空気に反響する。
表向きの表情は穏やかそのものだった。
慈悲深き聖職者そのものの、柔和な微笑みさえ浮かべている。
しかし、その胸の内は煮えたぎる憎悪で満ちていた。
(忌々しい……小娘どもが)
断罪劇は完璧に失敗した。
本来ならば。
フィリップ王子がリリアナを断罪し、彼女の名誉を貶め、失脚させるはずだった。
その上でクラリッサを正式な婚約者へと押し上げ、王家に対する教会の影響力を決定的なものにする──それが計画だった。
だが現実は残酷だった。
国王の決断。
王妃の冷徹な視線。
シャルロッテ王女の鋭い介入。
ヴィクトル王太子の存在。
そして、何より。
イリシア・ヴァルモンド。
あの小娘が全てを台無しにした。
結果、フィリップは謹慎処分を受け、クラリッサは自室に軟禁状態。
教会に対する王都の視線はかつてなく厳しくなり、保守派の動きは大幅に制限されていた。
(だが……まだ、終わってはおらん)
バルタザールは杖を強く握りしめた。
ミレイユさえ手元に置いていれば。
彼女の「聖女」としての力と、過去の罪科を握っていれば、いくらでも状況をひっくり返せる。
だからこそ彼は、久しぶりにこの最深地下牢を訪れていた。
念のための確認。
ほんのわずかな、しかし拭い去れない違和感が、ここ数日胸の奥に引っかかっていたからだ。
やがて、回廊の最奥。
重厚な鉄扉が立ちはだかる。
幾重もの神聖魔術による封印と結界が施され、外部からの干渉を完全に阻むはずの、最重要監禁施設。
バルタザールは自ら鍵を取り出し、複雑な魔法陣に魔力を流し込んだ。
ギィィィ……。
古い鉄が軋む不快な音とともに、扉がゆっくりと開く。
中は暗く、湿った空気が淀んでいた。
薄汚れた毛布。
欠けた陶器の食器。
壁に固定された重い鎖。
そして──
「……何?」
沈黙。
牢の中は、空だった。
ミレイユ・アンサリオの姿は、どこにもなかった。
バルタザールの瞳が、細く鋭く細められた。
数秒の完全な静寂。
次の瞬間、爆発的な魔力が彼の周囲で荒れ狂った。
「誰だァァァァァッ!!」
轟音が地下全体を震わせ、石壁に細かい亀裂が走る。近くに控えていた神官たちが悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「ひっ……!」
「ば、バルタザール様……お、お許しを……!」
男はゆっくりと振り返った。
その顔から、穏やかな微笑みは完全に消え去っていた。
残っているのは、純粋な怒り。
殺意。
そして、底冷えのする憎悪。
「説明しろ」
低い、抑揚をほとんど含まない声だった。
それが逆に、聞く者の魂を凍てつかせる。
「い、いえ……その……我々も……」
「説明しろと言ったはずだ」
神官の一人が真っ青になり、膝を震わせながら必死に言葉を紡ぐ。
「わ、我々も存じ上げません!見張りは毎日二交代制で欠かさず行っておりました!食事も朝夕、必ず運んで……!ですが……」
「ですが……?」
「いつからいなくなったのか、まったく分からないのです……!」
空気が凍りついた。
バルタザールは無言で牢内に入った。
床を這うように調べ、壁の石の一つ一つを指でなぞり、結界の残滓を嗅ぎ取るように魔力を巡らせる。
痕跡が、ほとんど残っていない。
まるで最初からミレイユという存在自体が、ここにはいなかったかのように。
ただ、わずかに残る魔力反応だけが、薄れゆく霧のように感じ取れた。
数日前のものだ。
(いつだ……?誰が手引きした?どうやってこの結界を突破した?)
答えが出ない。
それが何よりも腹立たしかった。
ここは教会の最重要監禁施設。
外部からの侵入など不可能に近い。内部の者でなければ不可能なはずだった。
バルタザールの脳裏に、真っ先に浮かんだ名前があった。
ラファエル・ドミニク
革新派の筆頭枢機卿。
長年、保守派と激しく対立してきた男。
教会内部の構造にも精通し、地下牢の配置や結界の弱点も知っている。
動機も十分にある。
しかし、すぐに動くことはしなかった。
もしラファエルが本当に無関係だった場合、自分から「ミレイユをここに監禁していた」という事実を暴露することになる。
それは今の状況では致命的な悪手だ。
(下手に動けば墓穴を掘る……)
バルタザールは深く息を吐き、怒りを腹の底に押し込めた。
冷静さを取り戻した声で、静かに命じる。
「総動員しろ」
神官たちが震えながら顔を上げる。
「王都全域を洗え。門番、商人、傭兵宿、孤児院、診療所、貴族街、下町の路地に至るまで、余さず調べよ」
冷たい声が暗闇に響く。
「ミレイユ・アンサリオを探せ。そして──」
彼は空っぽの牢を振り返った。
「最近、この地下区画に不審な出入りがあった者を全て洗い出せ。神官でも、修道女でも、聖騎士でも構わん。協力者が必ずいる。見つけ出せ」
「は、はっ!」
神官たちは慌てて駆け出していった。
やがて地下牢には、バルタザールただ一人が残された。
重い静寂。
冷たい暗闇。
そして、空になった牢だけが、まるで嘲笑うようにそこにあった。
「……誰だ」
男は独り、呟いた。
「誰が私の計画に手を出した」
その瞳には、燃えるような怒りと、わずかながらも確かに浮かんだ警戒の色があった。
敵の姿が見えない。
それが、何よりも不気味だった。
自らが何年もかけて、慎重に積み上げてきた巨大な計画が、今、ゆっくりと、しかし確実に崩れ始めていることを、バルタザールは初めて肌で感じていた。
暗い地下牢の奥で、空の牢だけが、静かにその闇を湛え続けていた。
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