第3話 兄への相談
イリシアは執務机の上に幾つもの紙を丁寧に並べながら、深く長い息を吐いた。
窓の外では、春の日差しがヴァルモンド公爵家の広大な庭園を優しく照らしていた。
色鮮やかな花々が咲き誇り、噴水の水音が穏やかに響く。
しかし彼女の頭の中は、そんな穏やかな光景とは正反対だった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、あの地下の暗闇。
ミレイユ──本物の聖女。
虚ろな瞳、痩せ細った体、幾重にも刻まれた喉の傷跡。
血を抜かれ続け、魂まで削り取られている少女の姿が、夜毎に夢に現れる。
感情だけで動けるほど、事態は甘くなかった。
イリシアは羽根ペンを手に取り、紙に自らの推測をまとめ上げていた。
偽りの聖女クラリッサ。
第二王子フィリップとの密会。
教会の保守派勢力。
そして、5ヶ月後──夏の始まりに予定されている、フィリップ王子の誕生日を祝う大舞踏会。
「恐らく……そこで起きる」
彼女はペンの先で机を軽く叩いた。
ゲームの記憶では、あの舞踏会こそが「断罪劇」の舞台。
本来ならイリシア自身が悪役令嬢として、聖女と王子たちに糾弾され、破滅を迎えるはずの場だった。
しかし今は違う。
既にクラリッサはフィリップに接近している。
教会が彼女を「道具」として利用しているなら。
フィリップが完全に取り込まれているなら──断罪劇は再び、別の形で起こり得る。
問題は、それまでにミレイユを救出できるかどうか。
そして救出のためには、教会の内部に信頼できる人間を送り込む必要があった。
イリシアは決断した。
「……アランお兄様に、相談しましょう」
数時間後。
ヴァルモンド公爵家別棟の執務室。
重厚なオーク材の机に向かい、書類の山に埋もれていたイリシアの2歳年上の、アラン・ヴァルモンドは、突然現れた妹の姿を見て片眉を上げた。
「珍しいな。お前からわざわざ来るなんて」
イリシアと同じ銀髪を軽くかき上げ、優男然とした笑みを浮かべる。
しかしその瞳の奥には、魔導公爵家次期当主としての鋭さが宿っていた。
「少々、相談がございますの」
イリシアは静かに扉を閉め、兄の向かいに立った。
「嫌な予感しかしないな」
アランは即答し、背もたれに深く寄りかかった。
イリシアは軽く咳払いをしてから、切り出した。
「ヴァルモンド家の『影』をお借りできませんか?」
その瞬間、アランの表情から軽薄な笑みが完全に消えた。
「駄目だ」
あまりにも早い拒絶だった。
「まだ理由も申し上げておりませんわ」
「聞くまでもない」
アランは机に肘をつき、指を組んだ。
声のトーンが一変し、冷徹な政治家の顔になる。
「ヴァルモンドの影は、国家のための組織だ。
政治案件なら動かせる。王命があれば尚更だ。
だが……私情では動かせない」
イリシアは黙って兄の言葉を受け止めた。
予想はしていた。
それでも、可能性に賭けてみたかった。
「仮にお前が正しかったとしても、私的に工作員を送るのは危険すぎる。
下手をすれば公爵家全体に泥を塗ることになる」
その言葉に、イリシアも反論できなかった。
公爵家の影は、表舞台には決して出てこない暗部。
私情で動かせば、敵対勢力に格好の弱みを晒すことになる。
だからこそ、彼女は事前に準備を整えていた。
イリシアは机の上に数枚の資料を静かに置き、さらに懐から小さな魔法水晶を取り出した。
「……何だ、これは?」
「まずはこちらをご覧くださいませ」
彼女は魔力を軽く流し込んだ。
水晶が淡い紫色の光を放ち、部屋の中央に幻影が浮かび上がる。
映し出されたのは──
クラリッサが侍女に怒声を浴びせ、杯を投げつける姿。
祈りの儀式を途中で放り出す冷たい表情。
高位神官を罵倒する様子。
そして、薄暗い客室でフィリップと密かに絡み合う、甘く親密な光景。
映像が終わると、部屋に重い沈黙が落ちた。
アランの顔から、余裕の表情が完全に消えていた。
今度は資料に目を落とす。
数分間、兄は無言でページをめくり続けた。
「……なるほど」
ようやくアランが口を開いた。
イリシアは静かに頷いた。
「城内で見せる姿と、民衆の間で語られる評判が、まるで一致しませんの。だから調べました」
「そして、何かを隠していると考えた、と」
「はい」
アランは椅子にもたれ、指でこめかみを軽く押さえた。
長い沈黙の後、彼はため息を吐いた。
「影は使えない」
やはり答えは変わらなかった。
しかし、次の言葉は予想外だった。
「だが」
アランは顎に手を添え、わずかに口元を緩めた。
「俺の事業団の者たちなら、動かせるぞ」
「事業団?」
「表向きは商会だがな。裏では様々な情報を扱っている」
少しだけ、楽しげに笑う。
「優秀な連中を集めている」
イリシアは小さく首を振った。
「難しいと思いますわ」
「なぜだ?」
「顔が割れておりますもの。
事業団は既に成功を収め、教会関係者にも知られているはず。潜入には不向きです」
アランも納得したように頷いた。
「それもそうだな」
再び兄妹は揃って考え込んだ。
窓の外から、春の小鳥のさえずりが穏やかに聞こえてくる。
その時、アランがふと笑みを深めた。
「だったら」
「?」
「顔が割れていない奴を使えばいい」
イリシアが顔を上げた。
「いるのですか?」
「いるとも」
アランは楽しそうに、しかしどこか悪戯っぽく言った。
「俺の事業団にはな、変人と問題児と天才しかいない。潜入任務なら、むしろ彼らの得意分野だ」
その笑みを見た瞬間、イリシアは胸の奥に小さな嫌な予感を覚えた。
恐らく、まともな人選ではないだろう。
だが同時に、止まっていた歯車が、再びゆっくりと動き始めたことも感じていた。
ミレイユを救うための、最初の大きな一歩が──
今、ここで踏み出されようとしていた。
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