第2話 籠の中の聖女
聖女クラリッサのお披露目式典から、1ヶ月ほどが経過していた。
王都ルヴァンは、ようやく冬の冷たい息吹から解き放たれようとしていた。
石畳の街路に残っていた薄汚れた雪は溶け、代わりに柔らかな新緑の芽が地面を突き破り始めている。
市場では早咲きの花が売られ、人々のコートも少しずつ薄くなっていた。
教会は新聖女の誕生を大々的に宣伝していた。
街角の掲示板にはクラリッサの肖像画が貼られ、聖歌隊が広場で賛美歌を歌い、民衆の人気は日に日に高まっていた。
「奇跡を見た」
「病が治った」
「神託を受けた」
──そんな噂が次々と広がる。
その多くが曖昧で、具体的な証言は少ない。
それでも人々は疑わない。
聖女とは、元々そういう存在なのだから。
ゲームの記憶通りならば、この時期から聖女と王族たちとの交流が本格的に始まるはずだった。
その点だけは、今のところ変わっていないようだ。
◇
ある穏やかな午後。
ヴァルモンド公爵家の屋敷、サンルームでのティータイム。
柔らかな日差しがレースのカーテンを透かし、テーブルに並んだ銀のティーセットを優しく照らしていた。
紅茶の香りと焼き菓子の甘い匂いが漂う中、リリアナ・ヴァルモンドが目を輝かせて語っていた。
「クラリッサ様は本当に素敵な方ですわ。お姉さまもぜひお話ししてみてくださいませ。
お話も上手ですし、教会のお仕事でお忙しいはずなのに、いつも優しく微笑んでくださるんですのよ」
銀色の巻き毛を揺らして、リリアナは無邪気に続ける。
3歳ほど年下の妹は、まだ世の中の裏表を知らない。
イリシアはカップを優雅に傾けながら、穏やかな微笑みを浮かべて相槌を打った。
「そうね。ぜひお話したいわ」
だが、心の奥底では小さな棘が、ずっと疼いたままだった。
──本当に、そうかしら?
◇
その翌日。
イリシアは王妃教育の一環として、第一王子ヴィクトルの執務室を訪れる予定だった。
書類の確認、外交儀礼の講義、次期国王夫妻として身につけるべき知識──それらが待っている。
王城の長い廊下を、静かに歩いていたときだった。
ふと、閉ざされた客室の重厚な扉の向こうから、声が漏れ聞こえてきた。
「本当に嫌になりますわ……この茶番」
低く、苛立った女性の声。
聞き覚えがある。クラリッサだ。
そして、男の声が応じる。
「もう少し我慢しろ。もう少しだ」
その声は──妹リリアナの婚約者、フィリップ第二王子だった。
イリシアは足を止めた。
胸の奥が、冷たいざわめきに包まれる。
ゲームでは、クラリッサが親しくなるのは第一王子のヴィクトルのはず。
フィリップではない。
ましてや、この時期に二人きりで親密に話すなど、ありえない。
彼女はゆっくりと息を整え、指を軽く振った。
足元の影が波打ち、小さな蜘蛛が這い上がってくる。
小指の先ほどの大きさ。
黒曜石のように艶やかな体躯をした、魔力で生み出された偵察用の使い魔。
イリシアが気に入ってる一体だった。
「行って」
蜘蛛は音もなく扉の隙間から滑り込み、視界が共有される。
客室の中は薄暗く、暖炉の火だけが揺れていた。
そこにいたのは、確かにクラリッサとフィリップ。
しかし、談笑というにはあまりにも──親密すぎた。
二人はソファに寄り添うように座り、距離が近い。
クラリッサの指が、フィリップの胸に軽く触れている。
笑い方が甘く、瞳がねっとりと絡み合う。
恋人同士のように。
イリシアの青い瞳が、細く鋭く細められた。
──まただ。
また、ゲームと違う。
その瞬間から、イリシア・ヴァルモンドは本格的に動き始めた。
◇
彼女が生み出した新たな監視網。
鳥の姿をした小さな影の使い魔。
イリシア本人は「小鳥」と名付け、可愛らしく思っている。
しかし実際は、黒い影の塊が不気味に羽ばたき、赤く光る目だけが浮かび上がる、少々恐ろしい存在だった。
「小鳥たち。教会を調べなさい。隅々まで」
影の群れは音もなく夜の闇に溶け、飛び立った。
◇
数日後。
集まった報告を読み、イリシアは眉を深くひそめた。
クラリッサは祈りを嫌う。
浄化の儀式を避け、治癒の仕事を神官に押し付ける。
高位神官にさえ苛立った声を上げ、侍女に物を投げつける。
平民への慰問は最低限で、笑顔は常に計算され、温度がない。
表舞台の「慈愛の聖女」とは、かけ離れていた。
そして、ある深夜。
一羽の小鳥が、慌ただしく帰還した。
何か重大なものを掴んだ気配だった。
イリシアは自室の椅子に深く腰掛け、視界を共有する。
──地下。
教会の本堂からさらに深く、暗い石造りの回廊を進む。
湿った空気、苔の匂い、滴る水音。
鉄格子が並ぶ一角。
そこに、少女がいた。
イリシアの呼吸が、止まった。
淡いピンクブロンドの髪が、乱れて肩に落ちている。
小柄で華奢な体躯は、すっかり痩せ細り、骨が浮き出ていた。
若葉色の虚ろな瞳は、何も映していない。
ただ、虚空をぼんやりと見つめているだけ。
間違いない。
ゲームの記憶で見た、本物の聖女──ミレイユ。
少女は窓もない狭い部屋の片隅に、力なく座り込んでいた。
首元に視線を移した瞬間、イリシアは息を呑んだ。
喉。
そこには、幾重にも刻まれた傷跡が残っていた。
古い傷と新しい傷が重なり、完全に癒えていない。
血を、繰り返し抜かれ続けている痕。
理解した瞬間、イリシアの胸の奥で、何かが音を立てて燃え上がった。
怒りだった。
静かで、深く、しかし激しく燃える怒り。
──どうして。
どうして人間が、人間にこんなことをできるのか。
少女は何も悪くない。
ただ「聖女」として生まれただけだ。
それなのに、檻に閉じ込められ、喉を切り裂かれ、血を奪われ、人生そのものを奪われている。
窓の外では、春の夜風が優しく木の葉を揺らしていた。
だがイリシアの瞳には、一切の温度がなかった。
「……そう」
静かな、氷のような声が零れた。
「そういうことなのね」
偽りの聖女。
本物の聖女の監禁。
前倒しされたお披露目。
捻じ曲げられた歴史。
全てが繋がった。
イリシアはゆっくりと立ち上がった。
拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わず。
これから先、何をすべきか。
もう迷いはない。
たとえ、それが自らの破滅に繋がろうとも。
たとえ、ゲームの筋書きを完全に壊すことになろうとも。
「必ず助けるわ」
虚ろな瞳の少女に向かって、誰にも聞こえぬ誓いを立てる。
「だから待っていて、ミレイユ」
その夜、イリシア・ヴァルモンドは決意した。
悪役令嬢としてただ生き延びるためではない。
誰かを守るために。
この捻じ曲がった世界と、真正面から戦うことを。
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