第1話 聖女のお披露目
時は遡る──半年ほど前。
冬の厳しさが、ルヴァン王国の王都を白く染め上げていた。
朝から降り続いた細雪は、石畳の街路に薄い銀のヴェールをかけ、建物の屋根を柔らかく覆っている。
冷たい風が路地を吹き抜けるたび、残雪が舞い上がり、灰色の空に溶けていく。
人々は厚手のマントを羽織り、息を白く吐きながら急ぎ足で家路についていた。
しかし、王城の大広間だけは、別世界だった。
天井の高い広間には、巨大なシャンデリアと無数の燭台が黄金色の光を降り注ぎ、壁際の暖炉では太い薪が赤々と燃えていた。
炎の揺らめきが、磨き上げられた大理石の床や、金糸で織られた壁掛けに映り、幻想的な輝きを生み出している。
今夜集まったのは、王国を支える高位貴族たち。
宝石を惜しげもなく散りばめたドレスや、軍服に飾られた勲章が光を反射し、華やかな喧騒を増幅させていた。
隅では宮廷楽団が、弦楽器とハープを優雅に奏で、甘く重厚な旋律を広間に満たしている。
本日は、教会より新たに認定された聖女のお披露目式典。
神の加護を受けた乙女が、民と貴族の前に初めて姿を現す、神聖にして華やかな儀式の日だった。
「聖女クラリッサ・エヴェレット様のご入場です」
朗々とした司祭の声が、広間に響き渡った。
一瞬にして、ざわめきが収まる。
全ての視線が、巨大な両開きの扉へと集中した。
ゆっくりと、荘厳な音を立てて扉が開かれる。
その奥から、一人の女性が姿を現した。
紫色の長い髪が、燭光を受けて妖しく輝く。
滑らかなストレートの髪は、腰のあたりまで達し、歩くたびに優雅に揺れた。
身に纏うのは、白銀の刺繍が施された純白の聖衣。
高貴さと神聖さを兼ね備えたその衣装は、彼女のすらりとした長身を美しく引き立てている。
整った顔立ち。
細く高い鼻梁、意志の強そうな眉、わずかに吊り上がった瞳。
貴族令嬢にも引けを取らない、洗練された歩み。
聖女クラリッサ・エヴェレット。
会場から、感嘆の息が漏れた。
「おお……」
「なんと美しい……」
「まるで、女神が降臨したようだ……」
称賛の声が、次々と波紋のように広がっていく。
だが、その光景を静かに見つめる女性だけは、違っていた。
イリシア・ヴァルモンド。
魔導の公爵家が誇る才媛であり、第一王子ヴィクトルの婚約者。
彼女は群衆のやや後方に立ち、海のような青い瞳で壇上を見つめていた。
その表情は穏やかだったが、胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さっていた。
──おかしい。
その瞬間だった。
頭の奥を、鋭い痛みが突き抜ける。
激しい眩暈。
耳鳴り。
まるでガラスが粉々に砕け散るような、甲高い音。
視界が激しく揺らぎ、イリシアは思わず隣の壁に手をついた。
「……っ!」
脳裏に、大量の記憶が雪崩のように流れ込んでくる。
知らない世界。
見覚えのある顔。
見たこともない文字の羅列。
そして── 一つの物語。
自分が「悪役令嬢」として登場する、恋愛ゲームの記憶だった。
「な……に……これ……」
誰にも聞こえないほど、小さく震える声が唇から零れた。
記憶の奔流は止まらない。
聖女の登場。
王子との恋。
婚約者の断罪。
魔族の侵攻。
長い旅路。
最終戦争。
魔王の復活。
数え切れない映像と感情が、頭の中を駆け巡る。
そして、全ての記憶が収束した後──
イリシアは再び、壇上の女性をじっと見つめた。
そこに立つ聖女を。
クラリッサ・エヴェレットを。
──違う。
前世の記憶にある聖女は、こんな人物ではなかった。
ゲームの中で出会った聖女は、もっと幼い少女だった。
柔らかなウェーブのかかった、淡いピンクブロンドの髪。
春の陽光のような、温かく純粋な笑顔。
小柄で華奢な体躯。
周囲を自然と癒し、安心させるような、穏やかな空気を纏った存在。
しかし今、壇上にいる女性は違う。
紫色の冷たい輝きを帯びた長い髪。
すらりとした長身。
大人びた、洗練された美貌。
そして──
その瞳は、冷たい。
民衆に向けられた微笑みは、確かに美しい。
だが、どこか作り物めいていて、温度を感じない。
時折、ふっと笑みが消え、細められた瞳が周囲を値踏みするような光を宿す。
イリシアは息を呑んだ。
前世の記憶の聖女には、絶対になかったものだ。
「……お姉さま?」
隣から、心配そうな小さな声がした。
振り返ると、3歳ほど年下の妹、リリアナ・ヴァルモンドが、不思議そうにこちらを見上げていた。
銀色の巻き毛が可愛らしく揺れ、大きな青い瞳が純粋に姉を映している。
「お顔の色が優れませんわ……大丈夫ですか?」
「ええ……少しだけ、目眩がしただけよ。ありがとう、リリアナ」
イリシアは無理に微笑んだ。
だが、心の中は嵐だった。
ゲームの記憶では、聖女のお披露目は春の訪れと共にあった。
今はまだ、冬の終わり。
聖女の容姿も、年齢も、雰囲気も、全てが違う。
まるで──別人。
その瞬間、漠然としていた違和感が、明確な形を取った。
前世の記憶は、確かだ。
ならば、間違っているのは記憶ではない。
この世界の方だ。
イリシアは再び壇上を見上げた。
歓声と拍手に包まれる、偽りの聖女。
満足げに頷く教会の高位聖職者たち。
華やかな笑みを浮かべる貴族たち。
誰も、この異常さに気づいていない。
胸の奥が、底知れぬ冷たさに包まれる。
まるで、深い雪の中に一人だけ取り残されたような、孤独で凍える感覚。
しかし同時に、奇妙な確信が、静かに芽生えていた。
──このままでは、いけない。
──何かが、決定的におかしい。
──この世界は、本来あるべき姿から、大きく外れている。
まだ理由も、証拠も、何もない。
だが、イリシア・ヴァルモンドは確かに感じ取っていた。
これは偶然ではない。
運命そのものが、どこかで捻じ曲げられているのだと。
壇上で、聖女クラリッサが優雅に手を振り、民衆に応える。
その唇の端に浮かぶ微笑みは、完璧に計算され尽くしたものだった。
イリシアは誰にも聞こえぬよう、ただ小さく呟いた。
「……この世界は、いったい何が起きているの……?」
その問いに答える者はいない。
だが、王国を揺るがす全ての出来事の、静かなる序曲は、この日、この瞬間から始まった。
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