第15話 宝石の国の祝宴
巨大な水龍は、ゆっくりと首を持ち上げた。
その琥珀色の瞳が、イリシアたち一行を静かに見下ろす。
もはや敵意や狂気は微塵も感じられなかった。
ただ、長い苦痛から解放されたような、深い疲労と安堵だけが宿っている。
「……終わりましたのね」
イリシアが小さく、ほっとしたように呟いた。
水龍は一度だけ、低く優しい唸り声を上げた。
まるで「ありがとう」と伝えるかのように。
そして、ゆっくりとその巨体を横たえ、長い尾を静かに水面に沈めた。
琥珀の瞳がゆっくりと閉じられ、久しぶりの安らかな眠りへと落ちていく。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、その神々しくも穏やかな姿を、静かに見守っていた。
やがて、ヴィクトルが静かに息を吐いた。
「帰ろうか」
ラシードも大きく頷いた。
「そうだな。王都へ戻れば皆が喜ぶぞ」
ジルークが肩を回しながら笑う。
「疲れた……帰ったら飯食わせろよ、王様」
「ははは!好きなだけ食え!」
ラシードの豪快な笑い声が、地下空洞に響き渡った。
その時だった。
全員が出口へ向かおうとした瞬間、イリシアだけが別の方向へ歩き出した。
「……?」
ヴィクトルが振り返り、固まった。
イリシアはしゃがみ込み、地面に散らばった黒い杭の破片を丁寧に拾い集めていた。
「イリシア」
「はい?」
彼女はきょとんとした顔で振り向く。
悪びれた様子は一切ない。
「何をしているんだい?」
「回収ですわ。解析したいですし」
「危険物だろう?」
「でも気になりませんこと?」
「ダメだ」
即答だった。
イリシアがむぅっと頰を膨らませる。
「ですが──」
「ダメだ」
「しかし──」
「ダメだ」
「少しくらい──」
「ダメだ」
「……」
「……」
二人が真剣に睨み合う。
ルークが隣で吹き出した。
「子供に言い聞かせる親かよ」
「仕方ないだろ」
ヴィクトルが真顔で返す。
「君のお兄さんから厳命されている。
『イリシアが危険そうな物体に興味を示したら全力で止めろ』と」
「兄様……!」
イリシアが愕然とした顔で叫んだ。
完全に裏切られた、という表情である。
ヴィクトルは深いため息をついた。
「どの世界に、危険な呪具の欠片を婚約者に触らせる馬鹿がいるんだい」
「わたくしなら平気ですわ!」
「そう言って無茶をするからダメなんだ」
「むぅ……」
まだ諦めていない。
チラチラと欠片を見て、明らかに隙を見て拾う気満々だ。
ヴィクトルはとどめを刺すように言った。
「ではアラン子息に報告しておこう」
「なっ!?」
イリシアが飛び上がった。
「卑怯ですわ!」
「正当な連絡だよ」
「横暴ですわ!」
「危険行為の未遂報告だ」
「抗議いたします!!」
「却下だ」
「ぐぬぬぬぬぬ……」
完全敗北だった。
ルークたちは腹を抱えて大笑いし、ラシードまで豪快に笑っている。
普段は誰よりも堂々としているイリシアが、今だけは完全に子供扱いされていた。
結局、回収した破片は全てヴィクトルが取り上げられる事になった。
イリシアは最後まで未練たらしく何度も振り返っていたが……
「帰るよ」
「……はい」
しょんぼりと肩を落としてついていく姿に、皆がさらに笑った。
◇
洞窟を抜け、再びオアシスの湖面へと浮上した瞬間──
全員が息を呑んだ。
「おお……!」
ラシードが目を見開いた。
湖の水位が、目に見えて上がっている。
先ほどまで露わだった岩肌は次々と水に沈み、干上がっていた岸辺も姿を消し、透明で清らかな水が溢れ始めていた。
岸辺に戻ると、王都の民たちが歓声を上げていた。
「ああっ!水が……水が戻ってるぞ!」
「水龍様だ!水龍様がお怒りを鎮められたんだ!」
人々は泣きながら手を合わせ、祈るように空を見上げる者もいた。
砂漠の民にとって、水は命そのもの。
失われかけた命の源が、再び与えられた喜びは計り知れない。
ラシードはその光景を見て、心の底から笑った。
「よし!」
彼は両手を大きく広げ、力強く宣言した。
「宴だ!!」
民たちが一斉に歓声を上げた。
「今夜は祭りだ!」
「酒を開けろ!」
「肉を焼け!」
「楽団を呼べ!」
「オアシス中で祝うぞ!!」
その声は瞬く間に街全体へ広がり、王都が一気に沸き立った。
ファリスが額を押さえながら苦笑する。
「また始まった……」
「いいじゃねぇか!」
ラシードは大笑いしながら振り返った。
「イリシア!ヴィクトル!ジュリアン!ルーク!ミーナ!ルヴァン王国の英雄たちよ!」
満面の笑みを浮かべる。
「今夜は俺の客人だ!盛大にもてなしてやるぞ!」
ヴィクトルが苦笑し、ジュリアンが拳を突き上げた。
「飯だ!!」
「お前はそればっかりだな……」
ルークが呆れながらも笑い、ミーナも嬉しそうに頰を緩める。
そしてイリシアは、煌めくオアシスを見つめながら静かに微笑んだ。
(……良かった)
まだ旅は続く。
ミレイユの回復。
クラリッサの問題。
バルタザールの影。
魔族の存在。
だが今だけは──
この平和と勝利を、心から喜んでもいいだろう。
夕暮れの光が、宝石のように輝くターコイズブルーの水面に反射していた。
笑い声、音楽、歓声に包まれながら、東方交易使節団の一行は、束の間の勝利の宴へと向かうのだった。
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