第11話 水龍の傷
イリシアが「魔族の仕業」と呟いた瞬間だった。
水龍の巨大な身体から、黒い瘴気が噴き出すように溢れ出した。
琥珀色の美しい瞳が、濁った深紅に染まる。
「グォオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
凄まじい咆哮が、地下空洞全体を震わせた。
空気が爆発的に振動し、耳を劈くほどの轟音。
湖面が一瞬で荒れ狂い、巨大な波が四方へ押し寄せる。
「伏せろ!!」
ヴィクトルが即座に叫んだ。
ラシードが咄嗟に身を低くし、ジュリアンが近くの岩陰へ飛び込む。
次の瞬間──
巨大な尾が薙ぎ払われた。
岩壁が粉々に砕け散り、大量の岩片が爆発的に飛び散る。
普通の人間なら、即死は免れない破壊力だった。
「危ない!!」
イリシアが素早く右手を振り上げた。
蒼白い魔法陣が瞬時に展開され、強力な防御結界が一行を覆う。
砕けた岩石が結界に激突し、激しい衝撃音が連続して響いた。
結界全体が大きく震えるが、辛うじて耐えきる。
「相当、興奮しておりますわね……!」
「興奮どころじゃない!」
ラシードが歯を食いしばって叫ぶ。
「完全に俺たちを敵だと認識しているぞ!」
再び水龍が咆哮を上げた。
その紅く濁った瞳には、理性の欠片も残っていない。
ただ、怒り、苦痛、そして狂気が渦巻いているだけだった。
その時、ジュリアンが何かに気づいた。
「待て」
低い、緊張した声。
「イリシア嬢」
「どうしましたの?」
「あいつの……首だ」
「首?」
「ああ。首の付け根辺りに、何か刺さってる」
全員が息を呑んだ。
イリシアも即座に魔力を瞳に集中させ、視力を強化する。
そして、はっきりと見えた。
巨大な青の鱗の隙間──
そこに、黒い杭のようなものが深々と突き刺さっていた。
杭自体が黒い瘴気を絶え間なく吐き出し、水龍の魔力を腐食させている。
イリシアの顔色が一変した。
「……呪具ですわ」
「確かかい?」
ヴィクトルが眉をひそめて確認する。
「ええ、間違いありません。
魔力を蝕み、痛みと狂気を増幅させる強力な呪具……」
その瞬間、全ての点が繋がった。
オアシスの水位低下。
水龍の異常行動。
凶暴化。
そしてこの黒い瘴気。
誰かが意図的に、水龍を苦しめている──
そう考えるのが、最も自然だった。
ラシードの表情が、怒りと悲痛で険しく歪んだ。
「何者だ……この国を守ってきた守護者を、こんな目に遭わせるなど」
「まだ分かりませんわ」
イリシアは首を振りながらも、冷静に答えた。
「ですが、確実に人為的なものです。
水龍様は被害者……いえ、利用されているのかもしれません」
「くそっ……!」
ラシードが拳を強く握りしめた。
この国にとって水龍は、ただの伝説ではない。
数百年にわたり、砂漠に命の水を与え続け、民を支えてきた聖なる守護者だ。
その存在が、誰かに苦しめられている事実に、国王としての誇りと怒りが爆発しそうになっていた。
その時だった。
「グォオオオオオオオッ!!」
今度はいっそう近い、圧倒的な咆哮。
巨大な身体が湖面を爆発させ、こちらに向かって突進してくる。
「来ます!!」
イリシアが叫んだ。
湖面が爆ぜ、巨大な顎が牙を剥き出しにして迫る。
ヴィクトルが即座に剣を抜いたが、イリシアがその腕を強く掴んだ。
「駄目ですわ!」
「しかし!」
「今ここで戦っても倒せません!相手は被害者ですのよ!」
その一言で、ヴィクトルも状況を理解した。
確かに、今戦う意味はない。
あの巨体をこの密閉された空洞で本気で相手にすれば、たとえ勝てたとしても、落盤で全員生き埋めになる可能性が極めて高い。
ジュリアンも即座に頷いた。
「撤退だ!まずは呪具の正体と除去方法を探す!
情報が足りなすぎる!」
ラシードも歯を食いしばりながら同意した。
「くそ……だが正しい判断だ。
ここで水龍様をさらに傷つけるわけにはいかない!」
再び尾が薙ぎ払われ、岩壁が大規模に崩壊する。
落石が雪崩のように降り注ぎ、地響きが空洞全体を悲鳴のように震わせた。
「急ぎますわよ!」
イリシアが転移魔法を発動した。
蒼い光の魔法陣が四人を包み込む。
直後──
巨大な顎が、彼らがいた場所を文字通り噛み砕いた。
凄まじい轟音と岩屑の爆発。
光が弾け、四人は水中通路近くまで強制転移していた。
「走ってください!」
全員が全力で駆け出した。
暗い水中通路を、背後から響く咆哮と地響きを振り切るように。
冷たい水を掻き分け、オアシスの水面へと飛び出したとき──
四人とも肩で息をしていた。
護衛船に乗っていたファリスがイリシア達を引き上げる。
「王、何があったのですか」
「悪い、少し状況を整理させてくれ」
ラシード王が言うとしばらく、誰も言葉を発しなかった。
聞こえるのは、ただ風の音と、穏やかに揺れる水面のさざ波だけ。
やがて、ラシードが静かに、しかし重く口を開いた。
「……守護者は、生きていた。だが、苦しみ続けている」
ジュリアンも険しい顔で頷いた。
「しかも、何者かの手によってな」
イリシアは静かにオアシスの水面を見つめた。
表面は穏やかだが、その奥底では巨大な守護者が、黒い呪具に蝕まれながら苦しみ続けている。
ヴィクトルが彼女の隣に立ち、低い声で尋ねた。
「どうする?」
イリシアはわずかに考え、静かに答えた。
「まずはあの呪具の正体を調べますわ。
素材、術式、作成時期……全て。
無理に引き抜けば、水龍様の命に関わる可能性がありますもの」
ジュリアンが腕を組んで続ける。
「誰が刺したかも、かなり気になる。
龍に近づいて、あんな杭を打ち込めるような奴は限られるはずだ」
ラシードの表情がさらに暗く、険しくなった。
「国内の犯か……それとも、国外の勢力か」
誰も即答できなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
これは自然現象でも、偶然の事故でもない。
明確な事件であり、その背後には、相当に大きな陰謀が隠れている。
イリシアは空高く照りつける太陽を見つめながら、小さく呟いた。
「呪具……黒い瘴気……まるで……」
脳裏に、クラリッサの顔、バルタザールの影、そして魔族の存在がよぎる。
まだ確たる証拠はない。
しかし、前世の記憶が、強く警鐘を鳴らしていた。
──この事件は、ただの地方の異変ではない。
もしかすると、ルヴァン王国で起きている出来事とも、深く繋がっているのかもしれない。
イリシアたちは一度王城へ戻り、情報を集めることを決めた。
守護者を救うために。
事件の黒幕を暴くために。
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