第9話 水底の岩
アル=ジャウハル王国滞在五日目。
使節団は王都の客館で、穏やかながらも充実した日々を過ごしていた。
特にミレイユの回復は目覚ましかった。
まだ長時間の歩行は難しいものの、顔色はすっかり良くなり、食事も以前のようにしっかり摂れるようになった。
時折、控えめな笑顔を見せるようになり、イリシアやミーナは毎日のようにその変化を喜んでいた。
「本当に、よかった」
イリシアは朝の光の中で、共に穏やかな朝食を取ってるミレイユの姿を優しく見つめていた。
地下牢で見つけた時の、骸骨のように痩せ細った彼女とは、もはや別人だった。
しかし、そんな穏やかな時間とは裏腹に、オアシスの状況は日々悪化の一途を辿っていた。
市場では商人の不安げな声が飛び交う。
「また減ってる……昨日より明らかに水位が下がってるぞ」
「やっぱり水龍様に何かあったんじゃないか……?」
「そんなこと言うんじゃねえよ。でも、今年に入ってからずっとだ……」
最初はただの噂だった。
しかし今では、誰の目にも明らかになっていた。
巨大オアシスの美しい水面が、毎日少しずつ、確実に低下している。
イリシアたちも何度か視察に出かけたが、原因は依然として掴めないままだ。
そんなある日の昼下がり──
事件は突然起きた。
「……あれ?」
オアシスのほとりの食事処で軽い昼食を取っていた一行。
ジュリアンがふと、突然妙な顔をした。
ルークが隣で首を傾げる。
「どうした、ジュリアン?」
「いや……なんかある」
ジュリアンは目を細め、遠くオアシスの中心部をじっと見つめた。
「何があるんですの?」
イリシアが興味深そうに尋ねる。
ジュリアンは無言で指を差す。
「真ん中だ。オアシスのど真ん中に……何かある」
全員が視線を向けたが、何も見えない。
ただ、陽光を反射して輝く青い水面が広がっているだけだった。
「気のせいじゃないんですか?」
ミーナが穏やかに言う。
しかしジュリアンは首を振り、珍しく真剣な表情を崩さなかった。
「いや、絶対にある。岩みたいな……いや、もっと大きい。形が妙だ」
普段は適当で明るい彼の言葉に、イリシアはすぐに反応した。
イリシアは知っている──ジュリアンの感覚は異常なまでに鋭い。
特に戦闘や索敵に関して、理屈では説明できない直感を持っていることを。
ヴィクトルも気づいたらしく、低い声で確認した。
「何が見える?」
「岩……いや、違うな。もっと大きい。人工物っぽい」
イリシアの瞳が鋭く細められた。
「上空から確認しましょう」
ジュリアンは得意の視覚リンク魔法を展開しようとした。
だが、数分後、頭を掻きながら報告した。
「駄目だ……鳥がいない。この辺りじゃ視界を借りられる距離に鳥がほとんどいない」
灼熱の砂漠では当然といえば当然だった。
すると、イリシアが小さく微笑んだ。
「でしたら、わたくしの出番ですわね」
ぱちん、と指を鳴らす。
次の瞬間、彼女の影から小さな白銀の使い魔が飛び出した。
鷹ほどの大きさの、優雅で勇ましい鳥の姿をした魔導生物。
「便利すぎるだろ、それ……」
ルークが呆れたように呟く。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
鳥は一瞬で空高く舞い上がり、ジュリアンが視覚リンクを接続した。
「よし……見える」
高度が上がり、王都全体と巨大オアシスが視界に広がる。
そして──
「……あ」
ジュリアンの表情が一変した。
「やっぱりあった。巨大な岩……いや、岩じゃない」
「何が見えましたの?」
イリシアが身を乗り出す。
「穴だ……表面に巨大な裂け目みたいな穴が開いている。
水面下に続いているぞ」
静寂が落ちた。
イリシアとヴィクトルが素早く視線を交わす。
(まさか……)
その日の夕方、王宮に緊急の会合が招集された。
「なるほどな……オアシスの中心部か」
ラシードが呟くと、ファリスが地図を広げながら確認する。
ジュリアンはこれまでの観察を詳細に説明した。
ラシードは腕を組み、豪快な笑みを浮かべながらも目を鋭く光らせた。
「実際に確認する必要があるな」
「確かに」
「なら俺も行くぞ」
「陛下?」
ファリスが即座に眉をひそめた。
「危険かもしれません」
「だからこそだ」
ラシードは豪快に笑った。
「俺の国の問題だろう?王が行かなくてどうする」
誰も反論できなかった。
◇
翌朝。
小型の船がオアシスに浮かべられた。
乗船するのは四人──イリシア、ヴィクトル、ジュリアン、そしてラシード国王。
ファリスは護衛船を率いて待機することになった。
青く澄んだ水面を滑るように船が進む。
近づくにつれ、全員の表情が次第に引き締まっていった。
「あれは……」
ヴィクトルが低く呟く。
確かに存在していた。
オアシスの中心部、水面からわずかに頭を出した巨大な岩塊。
しかし近づくにつれ、それがただの岩ではないことが明らかになった。
表面には人工的に削られたような規則的な痕跡。
そして、水面下へと続いている巨大な裂け目。
ジュリアンが指を差した。
「見ろ!あそこだ!」
ぽっかりと口を開けた、暗い水中洞窟。
まるで何かが内部へと誘い込むような、不気味な入口。
「水中洞窟……かしら?」
イリシアが静かに呟いた。
ラシードの表情が険しくなる。
「昔からありましたの?」
「いや。初めて見る」
つまり、最近現れた──あるいは、最近まで水面下に隠れていたものだ。
イリシアはゆっくりと立ち上がり、湖面を見つめた。
「調査しましょう」
「潜るのか?」
ヴィクトルが確認する。
「ええ」
イリシアは優雅に微笑んだ。
「幸い、水中探索用の魔法は幾つか習得しておりますの」
ぱちん。
彼女が指を鳴らすと、足元に淡い青色の魔法陣が広がった。
その光が四人を優しく包み込む。
「これは?」
「水圧耐性、呼吸補助、体温維持……ついでに防御結界もですわ」
ラシードが感心したように笑った。
「便利だな、魔導公爵家の令嬢!」
「これくらいは当然ですわ」
イリシアは湖面へ向かって右手を差し出した。
次の瞬間、湖の水が彼女たちの周囲を渦のように巡り始める。
「掴まっていてくださいな」
ふわり、と身体が浮いた。
まるで見えない流れに運ばれるように、四人は湖の中へ滑り込む。
水は服を濡らさない。
息も苦しくない。
周囲の水流そのものが彼らを守り、導いているのだ。
「おいおい……」
ジュリアンが目を丸くした。
「泳がなくていいのか?」
「ええ。無駄な体力は使いたくありませんもの」
当然のように答えるイリシア。
彼女が指先を動かすたび、水流は意思を持つ生き物のように形を変え、四人を湖底へ運んでいく。
やがて視界の先に巨大な洞窟が現れた。
黒く口を開けたその入口から漂ってくる。
生き物の気配。
巨大な存在の気配。
そして──どこか哀しげで、苦しげな気配。
イリシアは静かに目を細めた。
間違いない、この先にいる。
(いましたわね……熱砂の水龍)
ゲーム第二章、最初の大型イベント。
その核心が、今、ついに姿を現そうとしていた。
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