第8話 宝石の国と枯れゆくオアシス
ペリス共和国を出立してから、およそ二週間。
ルヴァン王国を離れてから、すでに一か月近く。
追手の心配も薄れ、国を数個跨いだ先ではミレイユの顔を知る者もほとんどいない。
そのため数日前からミレイユに施してた変装用の魔道具を外し、本来の姿へと戻っていた。
陽光を受けて淡く輝くピンクブロンドの髪。
春を思わせる柔らかな若葉色の瞳。
長らく隠し続けていたその容姿は、砂漠の強い日差しの下で一層鮮やかに映えていた。
東方交易使節団の馬車は、東へ、さらに東へ。
長い交易路をゆっくりと進み続けていた。
季節は秋の深まりを告げ、朝夕の風は冷たさを増していたが、砂漠地帯に近づくにつれてその恩恵は急速に失われていった。
乾いた熱風が顔を叩き、強い日差しが大地を灼く。
見渡す限りの黄土色と、ところどころに点在する岩山。
草木はまばらで、生き物の気配も薄い。
そんな単調で苛烈な風景の中──
馬車の窓から顔を覗かせていたミレイユの瞳が、初めてわずかに輝いた。
「……っ!」
その視線の先にあるものは、誰の目にも明らかだった。
地平線の彼方。
まるで空から巨大な青い宝石を落としたかのような、圧倒的な湖の輝き。
その周囲には白い建物が密集し、陽光を反射してきらめいている。
砂漠の只中に忽然と現れた、青と白の楽園。
「見えてきましたわね」
イリシアが穏やかに微笑んだ。
「アル=ジャウハル王国ですわ」
ミーナが思わず感嘆の声を上げた。
「わぁ……すごい……本当に宝石みたい……」
「マジで海があるぞ……!?」
通信越しのルークも窓に張り付くようにして呟く。
ジュリアンはさらに身を乗り出し、大声を上げた。
「おおおおお!?なんだあれ!?砂漠の真ん中に海があるぞ!」
「海ではありませんわ」
イリシアが即座に訂正する。
「巨大オアシスですの。『宝石の湖』と呼ばれるアル=ジャウハルの命の源ですわ」
「いやいやいや!オアシスってあんなデカいのかよ!?」
「わたくしも実物を見るのは初めてですが……想像以上ですわね」
イリシア自身も、窓辺で目を細めてその光景を見つめていた。
前世のゲーム画面で見たことはある。
しかし、現実として目にすると、息を呑むほどの圧巻だった。
ただひたすらに青い。
空よりも深く、宝石よりも澄み切った蒼。
砂漠の苛烈な陽光の下で、その水面はまるで奇跡のように輝いていた。
風に揺れる水のさざ波が、光を無数に砕き、ダイヤモンドダストのようにきらめく。
ヴィクトルが静かに、しかし感慨深く呟いた。
「これが……宝石の国か」
その言葉通りだった。
アル=ジャウハル王国──別名「宝石の国」。
ターコイズブルーを象徴色とする砂漠の大国。
豊富な宝石・鉱物資源、希少な香料、そしてこの巨大オアシスによって栄える、東方有数の交易国家である。
街に入ると、異国情緒はさらに濃密になった。
白を基調とした建物に、鮮やかなターコイズや金色の装飾が施されている。
市場には色とりどりの絨毯、香辛料の山、瑞々しい果実、磨き上げられた宝石が所狭しと並び、活気ある呼び込みの声が飛び交う。
人々の衣服にもターコイズ色の刺繍が輝き、街全体が一つの巨大な芸術品のように美しかった。
空気にはサフランやカルダモンの甘い香り、焼きたての平パンの匂いが混じり、異国の風が五感を刺激する。
だが──
そんな華やかな街並みの中で、イリシアは明確な違和感を覚えた。
「……?」
人々の表情だ。
笑顔はある。
商売の声も活発だ。
しかし、どこか影がある。
目元に不安の色がちらつく。
市場を歩いていると、耳に飛び込んでくる会話。
「最近また水位が下がったらしいぞ……」
「本当か?もう大分じゃねぇか?」
「水龍様に何かあったんじゃないかって、みんな心配してるんだ」
「縁起でもないこと言うなよ……でも、今年に入ってからずっとだよな」
イリシアは耳を澄ませた。
水位低下。
水龍。
不安。
同じ言葉が、何度も繰り返し聞こえてくる。
ヴィクトルも気づいたらしく、低い声で囁いた。
「何か、深刻な問題が起きているみたいだね」
「ええ……少し、気になりますわ」
イリシアの蒼い瞳が、わずかに鋭くなった。
その日の昼。
使節団は王城へと招かれた。
アル=ジャウハル王国王城──「宝石宮殿」。
その名に違わぬ壮麗さだった。
巨大なドーム屋根、白い大理石の柱、壁面に無数に埋め込まれたターコイズとラピスラズリ。
夕陽が差し込むたび、宮殿全体が青く輝き、まるで湖の中に浮かぶ幻想的な城のように見えた。
ミレイユが思わず見惚れ、ジュリアンは口を開けたまま固まっていた。
「すげぇ……金持ちすぎるだろ……」
「発想が庶民ですわね、ジュリアン」
「いや普通そう思うだろ!?」
そんなやり取りを交わしているうちに、一行は玉座の間へと通された。
「おお!」
豪快な笑い声が、広間全体に響き渡った。
「よく来たな、ルヴァン王国の友よ!」
褐色の健康的な肌、燃えるような金色の瞳、紺色の髪、鮮やかな青い外套。
頭には宝石を贅沢に散りばめた王冠を戴く、威風堂々とした男──
アル=ジャウハル王国国王、ラシード・アル=ジャウハル。
「歓迎するぞ!今日は堅苦しい挨拶など抜きだ!食事会だ、飲め食え!」
ラシードは手を大きく振り、ヴィクトルが礼を取ろうとするのを遮った。
「よいよい!友人を迎えるのに礼儀作法などいらん!」
ヴィクトルが困惑気味に苦笑する横で、イリシアは内心で微笑んだ。
(ゲーム通り……本当に豪放磊落な方ですわね)
国王の隣には三人の妃が優雅に座っていた。
知的な正妃アミーラ、冷静沈着な第二妃ライヤーナ、情熱的な第三妃ファリーハ。
そして国王のすぐ後ろ、一歩下がった位置に立つ黒装束の男。
鋭い眼光、隙のない佇まい、影のような存在感。
イリシアが小声で呟く。
「彼が……」
ヴィクトルが頷く。
「恐らく」
男は静かに一礼した。
「ファリスと申します。国王陛下の補佐を務めております」
低い、抑揚の少ない声。
元アサシンという経歴を持つ、ゲームでも人気の高いキャラクターだった。
食事会は予想以上に賑やかで、陽気なものとなった。
ラシードが途中から勝手に席順を変え始め、
「ヴィクトル!こっちに来い!ジュリアンもだ!ルーク、お前も飲め!」
「まだ昼ですが……」
「気にするな!」
「気にしてください陛下」
ファリスが即座に突っ込む。
王と臣下というより、親友同士のようなやり取りに、使節団の面々も自然と笑顔になった。
しかし、宴が中盤に差し掛かった頃。
イリシアは静かに本題を切り出した。
「陛下」
「うん?」
「街で、少し気になる話を耳にしましたの」
ラシードの表情が、わずかに引き締まった。
「オアシスのことでございます」
一瞬の沈黙。
先ほどまでの賑わいが、わずかに静まる。
ファリスが静かに口を開いた。
「そこまで広まっていたか……」
「やはり事実なのですね」
ヴィクトルが真剣な顔で言う。
ラシードはゆっくりと頷き、窓の外に広がる巨大オアシスに視線を向けた。
「ああ、最近な。水位が下がり続けている」
全員の表情が引き締まる。
「どれくらいですの?」
イリシアが尋ねる。
今度はファリスが答えた。
「半年で約一割。
雨量、日照、気温、地下水脈──どれも異常はないのですが、それでも原因が掴めないのです」
イリシアの瞳が細められた。
半年。
一割。
水龍。
前世の記憶が、強く警鐘を鳴らしていた。
(まさか……ゲーム第二章の『熱砂の水龍』イベント……)
ラシードが苦笑を浮かべた。
「民たちは、水龍様に何かあったのではないかと騒ぎ始めていてな」
「実際のところはどうなのですか?」
「分からん。それが一番の悩みだ」
国王の声が、珍しく重くなった。
「水龍様は古来よりこの国を守ってくださっている。
しかし近年、姿を現さなくなった。
誰も、その居場所を知らん」
重い静寂が玉座の間に落ちた。
イリシアは静かにオアシスを見つめた。
その美しい蒼い水面の奥底で、
誰にも気づかれぬまま、
既に悲劇の序曲が始まっているのかもしれなかった。
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