第7話 姉と弟
ルヴァン王城の一角、第二王子宮。
フィリップに与えられた私室は、今や豪奢な牢獄と呼ぶに相応しい場所となっていた。
厚いカーテンが昼夜問わず閉ざされ、窓からの光はほとんど遮断されている。
扉の外には常に護衛騎士が二人以上待機し、外出は厳しく制限。
ただし、それは彼を罰するためではない。
彼自身を守り、さらなる暴走を防ぐための措置だった。
王城内では、すでに不穏な噂が広がっていた。
誕生日の祝賀会で起きた婚約破棄騒動。
国王の怒り。
第二王子の謹慎処分。
そして聖女クラリッサへの疑惑──。
何も知らぬ貴族たちでさえ、宮廷の空気が明らかに変わったことを感じ取っていた。
そんな重苦しい午後。
重厚な扉が、静かに開かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、第一王女シャルロッテ・フォン・ルーヴェンだった。
優雅でありながら、芯の強さを感じさせる足取り。
淡いブルーのドレスが、薄暗い部屋の中でひときわ鮮やかに映える。
「……姉上」
フィリップがゆっくりと顔を上げた。
その姿は、以前の彼を知る者なら息を呑むほど変わり果てていた。
頰はこけ、目の下には濃い隈。
一度は整っていた金色の髪は乱れ、誇り高かった第二王子の面影は、すっかり薄れていた。
肩は落ち、背中は丸まり、まるで年老いたかのように見えた。
シャルロッテは静かに椅子を引き、弟の向かいに腰を下ろした。
穏やかな視線を、じっとフィリップに向ける。
「体調はどう?」
「……普通です」
即答だったが、声に力がない。
「嘘ね」
シャルロッテは微笑みながら、しかしはっきりと言った。
フィリップが言葉を詰まらせる。
「あなた、小さい頃から嘘をつくのが下手だったもの。
目が泳ぐ癖、今も直っていないわ」
少しだけ、懐かしそうな柔らかい笑みが浮かんだ。
だがフィリップは笑わなかった。
いや、笑えなかった。
「姉上は……私を責めに来たのでしょう」
「どうしてそう思うの?」
「私は王族として失格です」
フィリップは拳を強く握りしめた。指先が白くなるほど。
「リリアナを傷つけ、王家の信用を落とし、父上を怒らせ、姉上と兄上にも多大な迷惑を……全部、私の責任です」
声が震えていた。
後悔と自責の念が、波のように溢れ出している。
シャルロッテは黙って聞いていた。
弟の言葉一つ一つを、丁寧に受け止めながら。
そして、静かに尋ねた。
「本当にあなたの責任?」
「え……?」
「あなたは、本当にリリアナ嬢を憎んでいたの?」
フィリップの瞳が大きく揺れた。
その問いは、彼自身がずっと答えを出せずにいたものだった。
「私は……」
記憶を辿る。
幼い頃から共に育った婚約者──リリアナ。
真面目で、控えめで、少し不器用で、誰よりも努力家。
いつも自分を支え、励まし、陰ながら守ってくれていた少女。
嫌いだったことなど、一度もない。
むしろ──
「……好きでした」
小さな、掠れた声。
シャルロッテは聞き逃さなかった。
「でした?」
「……今は、この気持ちも本物なのか分からなくなってしまって」
静寂が部屋を包んだ。
フィリップは頭を抱え、苦しげに歯を食いしばる。
「思い出そうとすると……頭が痛くて、吐き気がして……
クラリッサを守らなければと思った。
リリアナは悪人だと、信じ込んでいた。
だけど今考えると……全部おかしくて、証拠もない。話も聞いていない。
なのに僕は、どうしてあんな暴言を……!」
声が震え、涙がにじむ。
苦悶の表情が、痛々しいほどだった。
シャルロッテは静かに立ち上がり、弟のそばへ歩み寄った。
そして、優しく額に手を当てた。
「姉上……?」
「少しだけ、我慢して」
淡い青白い光が、彼女の手から広がった。
王族に古くから伝わる浄化の秘術。
聖女のような大規模なものではないが、精神に巣食う異物を探るには十分な力だった。
シャルロッテは目を閉じ、意識を集中させる。
魔力の流れを感じ取り、フィリップの精神の奥深くへと探りを入れる。
そして──見つけた。
「……やっぱり」
「何ですか?」
フィリップには見えない。
しかしシャルロッテには、はっきりと分かった。
精神の奥底に、黒い糸のようなものが幾重にも絡みついている。
微弱ながら、極めて巧妙に仕掛けられたもの。
普通の魔術師なら見逃すレベルの、しかし確かな干渉。
(これは……催眠?精神誘導?それとも……)
完全には特定できない。
だが一つだけ、確信できた。
これは、自然な状態ではない。
シャルロッテはゆっくりと手を離した。
「姉上……?」
「安心しなさい」
彼女は優しく微笑んだ。
その笑顔には、揺るぎない姉の愛情が宿っていた。
「あなたは、まだ終わっていないわ。
少し時間はかかるでしょうけれど……必ず、元に戻れる。
私が、そうすると決めたから」
フィリップの目が見開かれた。
その言葉は、長い闇の中で初めて差し込んだ、一筋の光だった。
ずっと、誰かに言って欲しかった言葉。
「本当に……?」
「ええ。信じて」
シャルロッテは頷き、弟の乱れた髪を優しく撫でた。
「だから今は焦らなくていい。
まずはゆっくり休みなさい。
そして、自分の本当の気持ちを、思い出して。
自分が何を望んでいたのかを、考えて」
フィリップの瞳が、かすかに揺れた。
その奥に、ほんのわずかながら、失われかけていた理性の光が戻り始めていた。
シャルロッテはそれを確認すると、静かに立ち上がった。
「また来るわ」
「姉上」
呼び止められ、振り返る。
「何?」
フィリップは少し迷った後、小さく呟いた。
「……リリアナは、まだ私を許してくれるでしょうか」
シャルロッテは即答しなかった。
ただ、優しく、穏やかに微笑んだだけだった。
部屋を出た後、廊下で待っていたミモザが深く頭を下げた。
「いかがでしたか?」
シャルロッテの表情が、優しい姉の顔から、王女の鋭い顔へと変わる。
「確定ね」
「やはり……」
「ええ。フィリップは何らかの精神干渉を受けている。
極めて巧妙に、長期にわたって」
ミモザが息を呑んだ。
「犯人は……」
「まだ断定はできないわ、けれど……」
二人は同時に、同じ人物の顔を思い浮かべていた。
聖女クラリッサ。
そして、その背後にいる保守派の枢機卿バルタザール。
シャルロッテは窓の外、王都の空を見つめ、静かに目を細めた。
「イリシア嬢……あの子の勘は、やはり正しかったわね」
王女は背筋を伸ばし、歩き出した。
弟を救うために、真実を暴くために、来たるべき戦いに備えるために。
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