第6話 夢に巣食うもの
暗闇だった。
果てしなく、底知れぬ闇。
光も音も、時間さえも存在しない世界。
フィリップ・フォン・ルーヴェンは、その闇の只中に一人、ぼんやりと立っていた。
ここがどこなのか、自分が何をしていたのか、まるで思い出せない。
ただ、胸の奥底が酷く締めつけられるような、息苦しさだけがはっきりとあった。
「……僕は……」
声を出そうとしても、喉は掠れて言葉にならない。
すると、闇の向こうから、柔らかな笑い声が響いてきた。
『可哀想に……』
女の声。
とても優しく、慈愛に満ちた声。
まるでこの世のすべてを理解し、包み込んでくれるような──
『皆がお前を責める』
『誰もお前を分かってくれない』
『お前だけが正しかったというのに……』
フィリップはゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、クラリッサだった。
聖女らしい柔らかな微笑み。
純白の衣装に包まれた清廉な姿。
しかし、何かが違う。
微笑みの奥に潜む、ほんのわずかな歪み。
見てはいけないものを見てしまったような、不気味な違和感が胸をざわつかせた。
『リリアナはお前を裏切った』
『王家も』
『兄も』
『姉も』
『誰も、お前を理解しようとはしない』
囁きが、甘い蜜のように耳の奥に染み込んでくる。
頭が重い。
思考が溶けるようにぼやけていく。
何も考えたくない。
何も思い出したくない。
すると、突然、別の光景が闇の中に浮かび上がった。
幼い日の記憶──王城の庭園。
明るい陽光の下、ヴィクトル、シャルロッテ、そして自分。
三人で笑い合っている。
シャルロッテが膝の上に本を広げて読み聞かせてくれた日。
ヴィクトルと木剣を手に、汗だくで遊んだ日。
転んで膝を擦りむいた自分を、リリアナが心配そうに駆け寄ってきた日。
懐かしい。
温かい。
愛おしい記憶。
だが、その光景に黒い染みがゆっくりと広がり始めた。
色鮮やかな庭園が、腐敗するように黒く汚れていく。
『偽物だ』
声が嘲笑う。
『全部、偽物だ』
『彼らはお前を見下していた』
『お前はただ利用されていただけ』
フィリップは激しく首を振った。
「違う……そんなはずはない……!」
姉上はいつも優しかった。
兄上は厳しかったが、ちゃんと守ってくれていた。
リリアナも──
『なら、何故?』
声が嗤う。嗤う。嗤う。
『何故、誰もお前の味方をしなかった?』
その言葉に、フィリップは凍りついた。
何も言い返せない。
答えられない。
『ほら、見ろ』
『やはり、私だけだ』
クラリッサが優しく手を差し伸べる。
『私だけがお前を愛している』
その背後で、何かが蠢いていた。
黒い影。
ねじれた角。
血のように赤い瞳。
だがフィリップは、気づかない。
ただ、すがるようにその手を取ろうと──
「フィリップ!!」
鋭い声が響き渡った。
世界が砕け散る。
クラリッサの姿が歪み、消えていく。
闇が引き裂かれ、眩しい光が一気に溢れ出す。
フィリップはハッと目を開けた。
「……はぁっ……!はぁ……っ!」
全身が冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
心臓が激しく鳴り、呼吸が荒い。
枕は汗で重く、シーツは乱れに乱れていた。
また……同じ夢だ。
ここ数ヶ月、毎夜のように繰り返される悪夢。
目を覚ましても、クラリッサの甘い声が頭の中に残っていた。
起きている間でさえ、耳元で囁くように。
「……僕は……どうして……」
額を強く押さえる。
激しい頭痛。
吐き気。
胸の奥の締めつけ。
どれも、毎回同じだった。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「殿下」
聞き慣れた侍従の声。
「第一王女シャルロッテ殿下がお見えです」
フィリップの身体が、びくりと固まった。
姉上。
会いたい——という気持ちが、確かに胸のどこかにあった。
しかし、同時に、強烈な拒絶感が湧き上がる。
会いたくない。
近づかれたくない。
否定される。責められる。壊される──
『行くな』
頭の奥で、声が鋭く命じた。
『あれはお前を否定する者だ。敵だ』
フィリップは顔を歪め、こめかみを押さえた。
頭痛が一層激しくなる。
「殿下……?いかがなさいましたか?」
侍従が心配そうに扉の向こうから呼びかける。
フィリップは長い沈黙の後、掠れた声で答えた。
「……通してくれ」
その言葉と同時に、頭の奥で何かが不快げに低く唸った。
まるで、姉と会わせたくないとでもいうように。
◇
その頃──
王都教会、聖女専用の私室。
豪奢な部屋の中央で、クラリッサは花瓶を床に叩きつけていた。
ガシャァン!!
甲高い破砕音が響き渡り、侍女たちが震え上がって壁際に縮こまる。
「どうしてよ!!」
クラリッサの叫び声が、部屋中に響く。
「どうしてあいつばかりが……!」
イリシア・ヴァルモンド。
邪魔された。
計画が狂わされた。
フィリップとの婚約発表。
第二王子妃の座。
教会内の権力拡大。
あと少しで手に入るはずだったすべてが──
日に日にフィリップにかけた催眠魔法が薄れていくのを感じる。
それが何よりもイライラを募らせた。
「何で私じゃないのよ!!」
花瓶の破片を蹴飛ばし、鏡を叩き割り、机を思い切り蹴る。
聖女の穏やかな仮面は完全に剥がれ落ち、血走った瞳と歪んだ表情だけが残っていた。
その瞬間。
部屋の隅で、誰にも見えない影がゆっくりと揺れた。
黒い靄のようなもの。
濃密で、粘つく気配。
それはクラリッサの激しい怒りと嫉妬を、貪るように吸い込んでいた。
そして、ほんのわずかだけ。
彼女の瞳が、深紅に光った。
誰も気づかない。
本人さえも。
だが確実に、何かが進行していた。
静かに。
ゆっくりと。
取り返しのつかない方向へと。
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