第5話 姉として
ルヴァン王城──第一王女宮、執務室。
深夜を過ぎても、部屋には柔らかな魔導灯の灯りが残っていた。
机の上には積み上げられた書類の山。
開かれたままの調査報告書。
フィリップの近況を克明にまとめた記録。
そして、数枚の古い肖像画。
シャルロッテ・フォン・ルーヴェンは、静かにそれらに目を通していた。
窓の外には、冷たい銀色の月が浮かんでいる。
王城の庭園は静まり返り、遠くで夜風が木々の葉を揺らす音だけが、かすかに聞こえてきた。
「……本当に馬鹿ね、貴方は」
呟きは、怒りというより深い悲しみと疲労を帯びていた。
彼女はゆっくりと一枚の肖像画を見つめた。
まだ幼かった頃の三兄妹が、庭園で笑っている絵。
ヴィクトルはすでに王子らしい落ち着きを見せ、シャルロッテは少し生意気そうに笑い、そして──
フィリップ。
あの頃の彼は、誰よりも優しい子だった。
鳥が傷ついているのを見れば泣き、虫を踏み潰すことすらできず、庭師の老人が腰を痛めたと聞けば、自分より小さな体で薬草を探しに行った。
温かく、純粋で、誰の心も自然と和ませる少年だった。
それなのに今はどうだ。
婚約者を一方的に断罪し、聖女に異常なまでに心酔し、王族としてあるまじき暴走を繰り返す。
まるで別人のようだ。
「貴方らしくないのよ……フィリップ」
ぽつりと零れた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「殿下」
「入りなさい、ミモザ」
扉が静かに開き、筆頭侍女のミモザが入ってきた。
いつものように冷静で、洗練された立ち居振る舞い。
しかし、彼女が手にしている報告書の重みは、容易に察せられた。
「エレナ様の保護が、無事完了いたしました」
「そう……」
シャルロッテは小さく頷き、わずかに肩の力を抜いた。
「体調は?」
「予想以上に良好です。精神的な疲労は残っていますが、命に別状はありません。アイリス・コートでの休息で、すぐに回復に向かうでしょう」
「それなら安心ね」
ミモザは一瞬言葉を切り、表情を引き締めた。
「それと……フィリップ殿下の件ですが」
空気が、ぴんと張りつめた。
シャルロッテの金の瞳が、鋭く細められる。
「進展は?」
「宮廷魔術師団による極秘診察の結果です」
差し出された書類を受け取り、シャルロッテは素早く目を通した。
数秒後、彼女の眉がわずかに動いた。
「……やはり」
「はい。精神干渉系魔術の痕跡が、明確に検出されています。
催眠・魅了・記憶改竄の複合的な影響が濃厚です。術式は非常に巧妙で、長期にわたって施されていた形跡があります」
重い静寂が部屋を包んだ。
イリシアの指摘は、やはり正しかった。
いや──彼女は「勘」などではなく、ほぼ確信に近いものを感じていたのだろう。
「術者は?」
「不明です。痕跡は巧妙に消されています」
「厄介ね……」
精神操作。
王族に対して行われたとなれば、それは国家転覆レベルの重罪だ。
その中心にいるのは、おそらくクラリッサ。
そして背後で糸を引いているのは──
「……バルタザール」
保守派の枢機卿。
今、最も警戒すべき男。
「殿下」
ミモザが静かに尋ねた。
「どうなさいますか?」
シャルロッテはゆっくりと立ち上がった。
迷いはなかった。
決意は、すでに固く胸の内に据えられている。
「決まっているでしょう」
窓辺に歩み寄り、弟の宮殿が見える方向に視線を向ける。
今は謹慎処分を受け、誰とも面会を許されず、孤立しているはずの場所。
「私は姉よ」
静かで、しかし力強い声だった。
「王女である前に、王族である前に。
私は、フィリップの姉なの」
その瞳に宿るのは、揺るぎない決意の光。
「だから助ける。
どれだけ時間がかかっても、どれだけ面倒でも、どれだけ危険を伴っても──
必ず、正気に戻してみせるわ」
ミモザは優しく微笑んだ。
昔から変わらない。
面倒見が良く、責任感が強く、家族を決して見捨てられない。
それがシャルロッテ・フォン・ルーヴェンという女性だった。
「では、準備を進めます。
まずは面会許可の取得から。次に、フィリップ殿下が変わり始めた時期の記録を全て洗い出します」
「ええ、お願い。過去の侍従日誌、魔法診察記録、交友関係……全てよ」
「承知いたしました」
ミモザが一礼する。
その時、シャルロッテはふと思い出したように、わずかに表情を緩めた。
「そういえば……」
「何でしょう?」
「ヴィクトルったら、イリシアの名前を出した瞬間だけ、必死だったわね」
ミモザがくすりと苦笑した。
「あれは重症ですね」
「でしょう?婚約破棄なんて、絶対に認めない顔をしていたもの」
二人は顔を見合わせ、声を潜めて小さく笑った。
重苦しい空気が、一瞬だけ和らぐ。
だが、笑顔の奥には、確かな緊張が残っていた。
戦いは、これから本格的に始まる。
フィリップを蝕む魔術の影。
教会の闇。
そしてクラリッサとバルタザールの存在。
王国内部でも、静かな反撃が動き始めていた。
◇
その頃──
王城、第二王子宮。
謹慎処分を受けたフィリップは、暗い部屋の奥で一人、椅子に深く沈んでいた。
灯りは最小限。
重いカーテンが閉め切られ、月光すらほとんど入らない。
虚ろな瞳。
こめかみを押さえる震える手。
そして、誰にも聞こえないはずの、甘く粘つく声。
『可哀想に……』
『皆がお前を責める』
『お前だけが正しいというのに』
『聖女様の愛だけが、お前を救う……』
フィリップは苦しげに頭を抱え、歯を食いしばった。
知らない。
この声が誰のものなのか。
どこから響いているのか。
だが、その囁きは確実に、彼の心を、魂を、ゆっくりと蝕み続けていた。
闇の奥で──
何かが、低く、嗤った。
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