第4話 月下の脱出
夜更け。
ルヴァン王国王都教会地下牢。
冷え切った石壁に囲まれた独房で、一人の少女が静かに膝を抱えて座っていた。
淡いピンクブロンドの髪が、薄暗い魔導灯の光にぼんやりと浮かび上がる。
痩せ細った肩、痛々しい喉の傷跡、虚ろな瞳——すべてが本物のミレイユを完璧に再現していた。
だが、それは偽物。
エレナだった。
ルークとミーナの高度な変装術と、影の魔術による幻影が織りなす完璧な偽装。
10日前、本物のミレイユが地下牢から救出された今、ここに残されているのは囮だけだった。
「……そろそろ、かな」
エレナは小さく呟き、息を整えた。
返事はない。地下牢は死んだように静まり返り、時折、水滴が石床に落ちる音だけが響く。
保守派の神官たちは、まだ何も気づいていない。
彼らは信じ込んでいる——聖女は今もこの牢に囚われたまま、と。
だからこそ、今夜が最後の脱出の機会だった。
エレナはゆっくりと床に手を伸ばす。
指先が冷たい石に触れた瞬間、影が不自然に揺らめいた。
その闇の中から、小さな黒いリスが顔を覗かせた。
『時間です、エレナ様』
使い魔の落ち着いた声。
「やっとね……」
『外の巡回警備が交代で移動しました。次の巡回まで四分間。防御結界もラファエル様の協力で一時的に弱点が生じています。今が最も安全です』
エレナは立ち上がり、固くなった身体を軽く伸ばした。
数日間、囚人として振る舞い続けたせいで関節が重い。
だが、逃げるだけなら問題ない。
彼女の身体能力は、元諜報員としての訓練で磨かれている。
「行こうか」
『出口は右へ二十歩。その先を左です。ご主人様の地図は正確です』
イリシアの使い魔であるリスは、相変わらず優秀だった。
まるで頭の中に牢屋の完全な設計図を叩き込んでいるかのようだ。
エレナは音を立てずに牢の格子を押し開けた。
鍵は必要ない——牢番はラファエルが仕掛けた睡眠魔術で、壁に寄りかかったまま深い眠りに落ちていた。
廊下を進む。
冷たい石の感触が素足に伝わる。
階段を慎重に上り、地上への最後の鉄扉に手をかけた。
不気味なほど順調だった。
だが、扉を開けた瞬間。
「──誰だ」
低く鋭い声が響いた。
エレナの身体が凍りつく。
若い神官だった。ランタンを手に、巡回のルートが変わっていたらしい。
最悪のタイミング。
男がランタンを高く掲げ、光がエレナの顔を照らし出す。
「お前……!ミレイユ聖女……?どうして牢の外に!」
瞬間、エレナは魔力を練り上げた。転移魔法——切り札の短距離転移をしようとする。
だが、地下牢の残留結界の影響で精度が落ちる。
失敗すれば即座に捕まる。
(まずい……!)
その時だった。
影の中から黒いリスが素早く飛び出した。
『伏せてください!』
「え?」
次の瞬間、神官の足元から漆黒の影が爆発的に広がった。
黒いリス——いや、リスの群れだった。
「がっ!?な、何だこれは!」
神官の悲鳴が上がる。
数十匹の小さな影の生き物が一斉に彼の視界を覆い、顔や手足にまとわりつく。
直接的な攻撃力は低いイリシアの使い魔たちだが、目くらましと混乱を引き起こすには十分すぎる。
『記憶混濁術、展開確認。今です、エレナ様!』
「助かるわ!」
エレナは低く身を翻し、全力で走り出した。
背後で神官の混乱した声が響くが、すぐに遠ざかった。
教会の裏口を抜け、夜風が頰を撫でる。
久しぶりの自由な外気は、冷たくも甘く感じられた。
月明かりが石畳を銀色に染め、遠くで教会の鐘が低く鳴る。
裏路地を駆け抜け、数分後──
王都の高級住宅街の一角に辿り着いた。
月光に照らされた美しい看板。
『アイリス・コート』
王都で知る人ぞ知る高級化粧品サロン。
貴婦人たちの憩いの場であり、表向きは上流階級の社交場として機能している。
しかし、それは表の顔に過ぎない。
エレナは警戒しながら周囲を見回した。
「……本当にここ?」
『はい。ご主人様が保証した場所です』
「本当に安全なの?」
『保証します』
「根拠は?」
リスは小さな胸を張る(もちろん胸などないが、威厳だけは一人前だった)
『ご主人様と直接会ったことのある、極めて信頼できる人物です』
「それ、かなり雑じゃない……?」
『とても安全です』
「いや、もっと説明を──」
その時、店の重厚な扉が静かに開いた。
現れたのは、一人の洗練された女性。
栗色の髪を上品にまとめ、落ち着いた濃紺のドレスを纏った彼女は、優雅でありながら鋭い観察眼を湛えていた。
一瞬でエレナの変装の奥を見透かしたような視線。
エレナは即座に身構え、短剣に手をかけた。
女性は動じることなく、優雅に一礼した。
「エレナ様ですね。夜分に失礼いたします。わたくし、第一王女シャルロッテ殿下付き筆頭侍女のミモザと申します」
「……」
「殿下より、すべての事情は伺っております」
「証拠は?」
エレナの声は冷ややかだった。
ミモザは穏やかに微笑み、静かに伝言を告げた。
「イリシア様からの伝言です。『お兄様にだけは絶対にわたくしの研究室へ入れないでくださいまし』」
一瞬の沈黙の後、エレナは思わず吹き出した。
「ふふっ……確かに、あの人の言葉だね」
アランなら本当に研究室に突撃しかねない。
間違いなく本人からのメッセージだった。
「信じるよ」
「ありがとうございます。どうぞ、中へ」
ミモザが扉を大きく開けた。
店内からは柔らかなラベンダーとローズの香りが漂い、暖かな光がエレナを迎え入れる。
「ようこそ、アイリス・コートへ。ここから先は完全に安全です。殿下もお待ちです」
エレナは小さく頷き、振り返った。
遠くに浮かぶ王城の灯り、教会の尖塔、そして今も東へ旅を続けているであろう仲間たちの姿を思い浮かべる。
「さて……私も、私の仕事を始めようか」
ミモザも静かに微笑んだ。
「ええ、殿下も同じことを仰っていましたわ」
こうして、誰にも気づかれることなく。
囮として命がけの役割を果たした少女は、月影の中に姿を消した。
そしてその頃。
王城の奥深くでは。
第一王女シャルロッテが、静かに、しかし確実に動き始めていた。
——弟フィリップを取り戻すために。
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