第3話 月を穿つ光
ペリス共和国を発ってから、一週間が経っていた。
東へ。
さらに東へ。
交易路を辿る使節団の馬車は、緩やかな丘陵と広大な草原をゆっくりと進んでいた。
夏の終わりを告げる風は日ごとに冷たさを増し、道沿いの木々は葉の端を黄金色に染め始めていた。
遠くに見える山脈の稜線が、朝焼けと夕焼けに美しく照らされる。
旅の疲れを感じさせないほど、風景は日々変化し続けていた。
その間、イリシア・ヴァルモンドは完全に研究者と化していた。
馬車の中は、まるで移動式の研究室のようだった。
「お嬢様、お茶です。そろそろお休みしたらどうです?」
「ありがとう存じますわ、ミーナ。でも今は少しだけ……」
「三時間前にも全く同じやり取りをしましたよ」
「そうでしたかしら?」
「はい、はっきり覚えていますっ!」
「まあ……」
イリシアは全く覚えていなかった様子で、首を傾げた。
馬車の床には紙束が山のように積まれ、魔法陣のスケッチ、術式構造図、魔力循環の詳細なフローチャート、三日月の弓矢の改良案が所狭しと広がっていた。
いくつもの魔導ペンが転がり、インクの匂いが微かに漂う。
窓から差し込む陽光が、白い紙の上に細かな影を落としていた。
簡易ベッドの上から、そんな様子を静かに見つめているのはミレイユだった。
彼女の体調は少しずつ、しかし確実に回復しつつあった。
頰にはうっすらと血の気が戻り、地下牢で出会った時のあの骸骨のような痩せ細りからは想像もつかないほど、表情に柔らかさが戻っていた。
まだ長時間の活動は難しいが、目には確かな光が宿っている。
『……楽しそう』
筆談で伝える。
イリシアは紙から顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「ええ、とても。新しい魔法の可能性を掘り下げていくのは、本当に興奮しますわ」
『好きなんですね』
「大好きですわ」
即答だった。
「新しい魔法を見るのも、解析するのも、改良するのも、完成させるのも——全部、大好きですの」
その横で、通信魔道具越しのヴィクトルが苦笑した。
『つまり、寝る気はないと』
「ございますわ」
『昨日も同じことを言っていたはずだが』
「ございますわ」
『そして結局徹夜した』
「……」
『反論は?』
「……ございませんわ」
ミレイユが小さく肩を震わせて笑った。声は出ないが、その瞳は確かに笑っている。
その笑顔を見たイリシアは、ほんの少し目を細めた。
(よかった……本当に、少しずつだけど)
地下牢で見た、絶望に染まった彼女の顔が脳裏をよぎる。今のミレイユの穏やかな表情が、何よりの報酬だった。
◇
その日の夕方。
使節団は街道から少し離れた広い草原で野営を張っていた。
焚き火がパチパチと音を立て、橙色の炎が夜の闇を優しく照らす。
空には満月がゆるく昇り、銀色の光を大地に降り注いでいた。
遠くで馬たちが草を食む音と、風が草を撫でるささやきが聞こえる。
イリシアは一人、少し離れた場所に立っていた。
右手を前方に伸ばし、人差し指と中指を揃えて突き出す。
まるで拳銃を構えるような仕草。
左手を後ろに引き、弓を引き絞るイメージを強く持つ。
「……形成」
魔力が静かに集まり始めた。
青白い光の粒子が指先と腕の周囲に渦を巻く。
夜風が彼女の銀髪を優しく揺らし、月光がその髪に幻想的な輝きを与えていた。
何百回も分解し、何百回も組み直し、何百回も再設計した術式。
その成果が、今、形になろうとしていた。
「出力安定……収束率97%……魔力消費、従来比マイナス22%」
小さく呟きながら、遠方の巨大な岩山を狙う。
「——発射」
瞬間。
白銀の光が夜空を一直線に穿った。
音すら置き去りにするほどの超高速。
次の瞬間——
数百メートル先の巨大な岩が、音もなく消滅した。
ズドォォォォン!!
遅れて、凄まじい衝撃音と地響きが草原を揺るがした。
地面が大きく震え、鳥たちが一斉に夜空へ飛び立ち、焚き火の炎が激しく揺れた。
白い煙と舞い上がる岩屑が、月明かりの下で幻想的に輝いていた。
「…………」
「…………」
「…………」
後ろで野営をしていた全員が、完全に固まっていた。
ジュリアンがようやく口を開いた。
「いや、待て」
ルークが頷く。
「待った方がいいな」
ミーナも呆然としながら。
「待った方がいいですね……」
ヴィクトルだけが額を押さえ、深いため息をついた。
「イリシア」
「何でしょう?」
「今のは……何だい?」
「浄化魔法ですわ」
「嘘だろう?」
「本当ですわ」
「岩が跡形もなく消し飛んだんだけど」
「浄化しましたの」
「岩を?」
「はい」
「何を浄化したんだ?」
「不純物を、ですわ」
「全部だね?」
「全部ですわ」
ヴィクトルは天を仰いだ。
(この婚約者、研究に没頭すると常識が完全に吹き飛ぶ……)
イリシアは周囲の反応など全く気にも留めず、興奮した様子で紙束に書き込んでいた。
「威力、良好。射程、良好。魔力効率、良好。連射も可能……完成ですわね!」
『完成?』
「ええ!」
筆談でミレイユが首を傾げる。
イリシアは満面の笑みを浮かべ、月明かりの下で銀髪を輝かせながら答えた。
その表情は、悪役令嬢でも、外交官でもない。
ただの、天才魔術研究者の顔だった。
「名前も決めましたの」
ヴィクトルが嫌な予感を覚えて訊ねる。
「聞いてもいいかい?」
「もちろん!」
イリシアは胸を張り、堂々と宣言した。
「《ゼロ・レイ》ですわ!」
沈黙が落ちた。
風が吹き、焚き火が揺れる。
ジュリアンがぼそりと呟いた。
「なんかすげぇ強そう……」
「でしょう?」
「いや、実際強かったし」
「でしょう?」
「岩、完全に消えてたし」
「でしょう?」
イリシアは完全に上機嫌だった。
ヴィクトルは空を見上げ、ため息をつく。
満月が、まるで呆れているように見えた。
(この旅……本当に大丈夫かな……)
そんな不安を抱く王子のすぐ隣で、イリシアは新たな紙を取り出していた。
「さて、次は第二形態の検討に入りますわね」
「待って」
ヴィクトルが即座に止めた。
「今、完成したんじゃなかったのかい?」
「完成しましたわ」
「じゃあ何でさらに改良するんだ……?」
イリシアは純粋に不思議そうな顔をした。
「完成したからですわ。次に進めるじゃないですか?」
全員が頭を抱えた。
研究者とは、こういう生き物である。
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