第1話 月弓の国
ルヴァン王国を出立してから4日目。
夏の名残を惜しむように、昼間の陽射しはまだ強く照りつけていたが、朝夕の風は明らかに涼しさを増し始めていた。
木々の葉が微かに色づき、道沿いの野花も少しずつ姿を潜めていく。長い旅路の始まりを、季節が静かに告げていた。
東方交易使節団は、街道を順調に進み、最初の目的地であるペリス共和国へと到着した。
ペリス共和国——海と交易によって栄える中規模の海洋国家。
ルヴァン王国とは古くから固い友好関係を築いており、東方諸国へと向かう旅人たちにとって、文字通りの「中継地点」として欠かせない存在だった。
港湾都市が連なる海岸線、風に靡く白い帆、塩の香りと香辛料の匂いが混じり合う活気ある街並み。
それがペリスだった。
今回ここに立ち寄った最大の理由は、ミレイユの療養にある。
地下牢で長年、暗く冷たい石の床に囚われ続けていた彼女の身体は、想像以上に衰弱していた。
長旅の馬車の揺れに耐えられる状態ではなく、数日間の休息を挟みながら進む計画が立てられていた。
そして、その療養計画を最初に提案したのは、意外にもヴィクトルだった。
◇
出発前のルヴァン王城、馬車整備所。
「寝台を作る?」
イリシアは目を丸くして聞き返した。
ヴィクトルは当然のように頷いた。
「普通の馬車では身体への負担が大きすぎる。ミレイユ嬢はまだ回復途中だ。無理をさせて再び倒れられたら、元も子もない」
「それは……確かにそうですが」
「簡易的でいい。横になれる場所を作ろう。緩衝魔法を仕込んだ寝台と、振動を吸収する魔道具を追加する。女性陣の馬車を優先的に改造だ」
結果、女性陣の馬車は大幅な改装を施された。
座席を一部撤去し、ゆったりとした寝台を設置。
魔力で空気を柔らかく包む緩衝結界を張り、床には高級な羽毛布団と、微かな癒しの香りを放つ魔石を忍ばせた。
馬車の天井には光量を調整できる魔導灯を付け、窓には厚手の遮光カーテンも追加された。
決して豪華とは言えない。
しかし、長旅における「快適さ」という点では、充分以上に配慮されていた。
もちろん、カモフラージュのために男性陣の馬車にも同等の改造が施されたが、中身の快適さは明らかに女性陣の方が上だった。
◇
現在、その寝台の上ではミレイユが静かに横たわっていた。
向かい側にイリシア、その隣にミーナ。
ミレイユは念のため、まだエレナの姿に変身したままだったが、頰の血色は出発前とは比べ物にならないほど良くなっていた。
紺色の髪が寝台に広がり、薄く開いた瞳には穏やかな光が宿っている。
『そちらの様子はどうだい?』
通信魔道具から、ヴィクトルの声が響いた。
イリシアは思わず苦笑した。
「殿下、一日に何回確認するおつもりですの?」
『心配なんだから仕方ないだろう』
「4回目ですわよ。そろそろ信じてくださっても……」
『まだ4回だ』
「十分多いですわ!」
通信越しに、ジュリアンのくすくすという笑い声が聞こえてきた。
『俺もそう思いますよ、殿下。過保護すぎませんか?』
『うるさいぞ、ジュリアン』
今度はルークが吹き出した。
『いやでもマジで4回目だからな。俺らまで笑うわ』
『黙れ』
馬車の中に、小さな笑いの波が広がった。
ヴィクトルのため息が聞こえ、イリシアは思わず頰を緩めた。
普段は冷静沈着な彼が、こうして素直に心配を口にする姿は、まだ少し新鮮だった。
そんな穏やかな時間を過ごしながら、使節団はペリス共和国の王都へと入った。
◇
到着したその日の午後。
イリシアとヴィクトルは、正式な使節として王城を訪れていた。
海洋国家らしい白と青を基調とした宮殿は、豪奢というより洗練された美しさを持っていた。
高い天井の応接間からは、遠くに広がる紺碧の海と、白い波がはっきりと見渡せる。
ルヴァン王国の重厚な石造りの城とは、まるで違う開放的な景色だった。
「ようこそ、ペリス共和国へ」
穏やかな笑みを浮かべて迎えたのは、ペリス国王アルフォンスだった。
白髪交じりの穏やかな初老の王。
目尻に刻まれた皺が、温和な人柄を物語っている。
表敬訪問は滞りなく進んだ。
貿易協定の確認、文化交流の可能性、東方交易路の安全確保——形式的な話題を一通り済ませた後、夜には盛大な歓迎の食事会が催された。
大きな円卓には、新鮮な海産物を中心とした豪華な料理が並ぶ。
ペリス特有の香辛料を効かせた白身魚のカルパッチョ、香草と貝類の蒸し物、サフランライスに彩られた海鮮パエリアなど、ルヴァン王国では見慣れない品々が次々と運ばれてきた。
空気には塩気とスパイスの香りが混じり、食欲を刺激する。
談笑が和やかに続く中、国王がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ルヴァン王国には聖女様が現れたという話ですな」
その瞬間、イリシアとヴィクトルは、ほんのわずかに視線を交わした。
表情は完璧に平静を保ったまま。
「ええ。現在は教会を中心に活動しております」
ヴィクトルが穏やかに答える。
国王は感慨深げに頷いた。
「羨ましいことです。我が国には聖女のような存在はおりませんが……」
「ですが?」
イリシアが自然に首を傾げた。
国王は少し誇らしげに、目を細めて笑った。
「代わりに、我が国には古来より伝わる秘術があります」
「秘術……?」
「『三日月の弓矢』です」
その名を聞いた瞬間、イリシアの脳裏で前世の記憶が鮮やかに弾けた。
(——三日月の弓矢)
ゲーム知識が、瞬時に蘇る。
ペリス共和国の重要イベント。
強力な浄化魔法。
魔を討つための最終兵器級の秘術。
確か物語の終盤近くで登場し、魔族との決戦で大きな役割を果たしたはず——。
「どのような術なのですか?」
ヴィクトルが興味深げに尋ねた。
国王はゆっくりと説明を始めた。
「魔を祓う浄化の秘術です。古くは魔族との大戦で用いられました。巨大な魔力を圧縮し、一筋の矢として放つ。命中した対象の穢れや呪い、邪気を根源から浄化する力があります。使い手には並々ならぬ魔力制御と精神集中が求められますが……その威力は本物です」
イリシアの瞳が、わずかに細められた。
(やっぱり、ゲームと同じ……)
同時に、頭の中で様々な可能性が駆け巡る。
今後の旅路。
魔族の影。
教会の動き。
バルタザールやクラリッサの存在。
もし本当に魔族が関わっているのなら、この秘術は強力な切り札になるかもしれない。
「ぜひ、拝見したいですわ」
思わず口に出していた。
国王は驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「ほう、興味がおありかな?」
「はい。大変興味深いです」
イリシアは素直に頷いた。
するとヴィクトルが、優雅に微笑みながら付け加えた。
「彼女は我が国の三大公爵家の一つ、魔導公爵ヴァルモンド家の令嬢です。しかも公爵家随一の魔法才能の持ち主と評されております」
「ほう……!」
国王の目に、明確な興味の光が宿った。
「それは素晴らしい!ならばぜひ、神殿にてご覧ください。明日にでもご案内しましょう。優秀な魔術師の率直なご意見を伺いたいくらいです」
「本当によろしいのですか?」
「もちろんですとも。秘術は、実際に目にした方が早い」
食事会はその後も和やかに続いたが、イリシアの胸の内では、別の熱が静かに燃え始めていた。
(三日月の弓矢……)
ゲームでは、ただの強力イベントアイテムだった。
だが今は違う。
これは現実。
そして、もしこの秘術が想像通りの力を発揮するなら
将来、必ず役立つ。
そんな確信に近い予感が、彼女の心を満たしていた。
窓の外では、細く美しい三日月が、静かに夜空に浮かんでいた。
まるで、これから始まる長い旅路を、穏やかに見守るかのように。
第2部始動です!
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次回の投稿は20時頃を予定しております!
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