第17話 診療所
王都の喧騒から離れた下町の一角。
深夜にもかかわらず、ひっそりと灯りをともす小さな建物があった。
表向きは孤児院。
しかし実際には、アラン・ヴァルモンドが密かに支援する診療所でもあった。
傷ついた者、行き場を失った者、事情を抱えた者──そうした人々を、表社会の目から守りながら治療する、秘密の避難所だった。
馬車が音を殺して裏口に停まる。
ルークが素早く周囲を確認し、小さく頷いた。
「追跡なし。安全だ」
「よし」
ジュリアンは背中に負った少女を抱え直した。
あまりにも軽い。
骨と皮だけになったような、痛々しい軽さだった。
背中越しに伝わる微かな体温だけが、彼女がまだ生きていることを教えてくれる。
「着いたぞ……もう大丈夫だ」
声をかけても返事はない。
ただ、背中に小さく指が食い込む感触だけがあった。
ミーナが扉を3回、1回、2回と決められた合図で叩く。
すぐに扉が内側から開かれた。
現れたのは、青銅色の長い髪を後ろで束ねた女性──フレデリカだった。
三十代半ばほどの年齢。眼鏡の奥の瞳は医師としての鋭さと、深い慈悲を宿している。
「待っていたわ」
彼女は淡々と言い、すぐにジュリアンの背中に視線を移した。
その瞬間、彼女の表情が医師のそれへと切り替わる。
「中へ。急いで」
診察室へ運ばれたミレイユは、すぐに清潔な寝台に横たえられた。
フレデリカは無駄のない手つきで診察を開始する。
脈。
体温。
瞳の反応。
魔力の流れ。
そして──最も深刻な喉の傷跡。
痛々しい、無数の切り傷と瘢痕が重なり合ったその部分に触れた瞬間、フレデリカの眉がぴくりと動いた。
「……なるほど」
低い声。
怒りを押し殺したような、静かな響き。
「聞いていた以上ね」
ジュリアンが拳を強く握りしめる。
「治せるのか?」
フレデリカは即答せず、慎重に傷跡へ魔力を流し、詳細な診察を続けた。
数分後、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「命に別状はないわ」
三人が同時に安堵の息を漏らす。
しかし、続く言葉は重かった。
「ただし……喉は酷い」
診察室に緊張した静寂が落ちる。
「長期間にわたり、繰り返し損傷を受け続けている。
傷を癒やしては切り裂かれ、また癒やしては切り裂かれ……そんなことを何度も繰り返された痕よ」
ルークが顔を歪め、ミーナは唇を強く噛んだ。
フレデリカは淡々と、しかし確かな怒りを込めて続けた。
「普通なら、二度と声は出ない状態ね」
ジュリアンの肩が震えた。
だが、次の瞬間──
フレデリカは眼鏡を押し上げ、鋭い視線を三人に向けた。
「ただし、治療法がないわけではないわ」
「本当か!?」
「ええ」
彼女は机の隣にある本棚から一冊の古びた本を取り出した。
革表紙は年季が入り、見慣れない東方の文字が刻まれている。
「カミツ国の医術書よ」
ジュリアンたちが目を見開く。
「カミツ国……?」
「向こうには、妖術と高度な医術を融合させた特殊な治療法が存在するの。
喉の再生、神経の修復、声帯の再構築……私たちの技術では不可能な領域よ」
フレデリカは本を軽く開き、人体の精密な図を見せた。
「私ができるのは延命と応急処置。
根本治療は……現地へ行くしかないわ」
三人は顔を見合わせた。
まるで、イリシアが最初から全てを見抜いていたかのようだった。
「……やっぱり」
ミーナが小さく呟く。
「お嬢様の予想通り」
フレデリカは少し驚いた顔をした。
「イリシアお嬢様が?」
「はい。最初からカミツ国へ連れて行くつもりだったみたいです」
フレデリカは小さく笑った。
「相変わらず恐ろしい子ね」
その時、寝台の上のミレイユが微かに身じろぎした。
全員が振り向く。
ゆっくりと、薄い瞼が開かれた。
若葉色の瞳、怯えきった濁った瞳。
まるでこの世界そのものを恐れているかのようだった。
「大丈夫だ」
思わずジュリアンが優しく声をかけた。
ミレイユの身体がびくりと震える。
「もう誰も傷つけない。ここは安全だ」
少女は信じられないという顔をした。
当然だ。
今まで、ずっと裏切られ、傷つけられ、希望を踏みにじられてきたのだから。
フレデリカが優しく微笑み、少女の傍らに膝をついた。
「ここは診療所よ」
ミレイユがゆっくりと視線を向ける。
「あなたは患者」
静かで、確かな声。
「そして私は医者」
そして、彼女は穏やかに続けた。
「だから私のできる限り、治すわ」
その一言に、ミレイユの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
声は出ない。
けれど、その涙は「ありがとう」を、精一杯に伝えていた。
ルークは静かに視線を逸らし、ミーナも目を伏せる。
ジュリアンは胸の奥が熱く痛むのを感じていた。
こんな少女を、こんな状態になるまで放置し、利用し続けた者たちがいる。
その事実に、静かな怒りが湧き上がる。
しかし今は違う。
今必要なのは怒りではない。
救うことだ。
フレデリカが立ち上がり、指示を出す。
「まずは栄養補給と魔力安定。それから傷の応急処置。しばらくは絶対安静よ」
ミレイユは小さく頷いた。
その様子を見て、ジュリアンはようやく深い息を吐いた。
救出は成功した。
だが、これは始まりに過ぎない。
王城では今もイリシアが時間を稼ぎ続けている。
クラリッサ、バルタザール、教会、そして王国を蝕む闇──
全てとの戦いは、まだ終わっていない。
それでも、今この瞬間だけは。
この少女が生きていてくれたことを、心から喜びたかった。
窓の外では、月が静かに輝いている。
その月明かりは、長い闇の中で初めて差し込んだ、希望の光のように見えた。
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