第16話 王族
重厚な両開きの扉が、静かに開かれた。
その音は決して大きくなかった。
しかし、静まり返った大広間には十分すぎるほど響き渡り、全員の視線を一斉に入口へと引き寄せた。
次の瞬間、貴族たちは息を呑んだ。
「へ……陛下……!」
国王アレクシス・フォン・ルーヴェン。
その隣には王妃カタリナ。
さらに、第一王女シャルロッテまでが姿を現していた。
王族の中枢が、揃ってこの場に現れたのだ。
フィリップの顔色が、目に見えて青ざめていった。
「ち、父上……?」
国王は何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと大広間の中央へと歩み寄る。
その圧倒的な威圧感に、貴族たちは自然と道を開けた。
やがて、国王はフィリップの真正面で足を止めた。
「第二王子フィリップ」
低い、しかし大広間に響き渡る声。
「先ほどの発言を、もう一度聞こう」
フィリップの喉が、ごくりと鳴った。
だが今さら引き返せない。
隣でクラリッサが不安げに彼の袖を掴む。
フィリップは意を決したように声を上げた。
「リリアナ・ヴァルモンドは聖女クラリッサを侮辱し、数々の暴言を──」
「違う」
国王が静かに、しかし鋭く遮った。
会場が凍りついた。
「私が聞いているのはそこではない」
王としてではなく、国家そのものとしての冷徹な視線が、フィリップを射抜く。
「婚約破棄についてだ。その決定は、誰の承認を得た?」
「そ、それは……」
「私か?」
沈黙。
「王妃か?」
沈黙。
「ヴァルモンド公爵か?」
沈黙。
「お前の姉や兄か?」
沈黙。
答えられない。
答えなど、最初から存在しない。
会場中の貴族たちも、ようやく理解した。
これは正式な婚約破棄などではない。
ただの暴走だということを。
王妃カタリナが一歩前に出た。
「フィリップ」
その声は静かだったが、明確に怒りが滲んでいた。
「あなたは王族です。王族とは、感情で国を動かす者ではありません。
婚約とは、国同士の契約にも等しいもの。
それを独断で破棄するなど、言語道断です」
フィリップの顔が、さらに青ざめていく。
その時だった。
「お待ちください!」
クラリッサが必死に叫んだ。
全員の視線が彼女に集まる。
「殿下は私のために……!
私が苦しんでいるのを見てくださったのです!
私は被害者です!」
涙を浮かべ、縋るように訴える。
ここで崩れれば全てが終わる。
だから必死に泣き、叫び、縋る。
しかし、先程までとは明らかに違っていた。
誰も同情していなかった。
イリシアが積み上げた疑念。
ソフィアが突き付けた法の壁。
そして国王の登場──
全てが、会場の空気を完全に変えていた。
そんな中、第一王女シャルロッテが静かに口を開いた。
「聖女クラリッサ」
優雅で、しかし鋭い声音。
「ひとつ伺いますわ」
クラリッサが震えながら振り返る。
「はい……」
「貴女は先ほど、リリアナ様から継続的な嫌がらせを受けたと仰いましたね?」
「え、ええ……」
「では、報告書は?」
クラリッサが固まる。
「王城への被害届は?」
「……」
「教会への相談記録は?」
「……」
「護衛騎士への報告は?」
「……」
完璧な沈黙。
シャルロッテは小さくため息を吐いた。
「ありませんのね」
その一言で、会場の空気が決定的に変わった。
疑惑はもはや、確信へと変わっていた。
クラリッサが追い詰められ、唇を震わせる。
イリシアは扇子の影で静かに目を閉じた。
その時、耳元で影の使い魔『小鳥』が囁いた。
『第一脱出地点到達、追跡なし、対象安全』
胸の奥に、深い安堵が広がる。
(成功しましたわ……)
ミレイユはもう、地下牢にはいない。
救出は完了した。
だが、まだ顔には出さない。
代わりに、イリシアは静かに前に出た。
「陛下」
国王が視線を向ける。
「発言をお許しいただけますか」
「許す」
イリシアは優雅に一礼し、広間全体を見渡した。
「本件につきまして、我がヴァルモンド家は王家のご判断に従いますわ」
貴族たちが息を潜めて耳を傾ける。
「ですが」
蒼い瞳が、フィリップを真正面から捉える。
「少なくとも現時点において、リリアナは何一つ裁かれておりません」
フィリップが息を呑む。
イリシアは堂々と続けた。
「証拠は不十分。証言は曖昧。手続きは無効。
よって、婚約破棄は成立しておりません」
誰も反論できなかった。
なぜなら、全てが事実だったから。
その時、リリアナの身体が小さく震えた。
今まで必死に耐え続けていた。
婚約者から切り捨てられ、大勢の前で断罪されても、気丈に立っていた。
だが、限界だった。
身体がふらりと傾く。
倒れそうになった瞬間、優しく支えた人物がいた。
セドリック・リュシアンだった。
「リリアナ様」
穏やかで、温かい声。
彼はそっと彼女の肩を支え、守るように立った。
その姿を見たイリシアは、一瞬だけ目を細めた。
隣ではソフィアも、小さく優しい微笑みを浮かべている。
きっと、これから先。
リリアナを支える人は、ちゃんとここにいる。
もう大丈夫だ。
だから、イリシアは次の段階へと心を移した。
扇子を静かに閉じる。
そして、誰にも気づかれぬよう、ほんの少しだけ微笑んだ。
(さて、こちらは成功ですわ。次は教会ですわね……)
その頃。
王都の外では、ジュリアンたちを乗せた馬車が夜闇の中を疾走し続けていた。
本物の聖女を乗せて。
王国の運命を変えるために。
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