第9話 王命
王城の最上層、国王専用執務室。
深夜。
窓の外では、満月が静かに王都を銀色の光で照らしていた。
石畳の街路や遠くの聖堂の尖塔が、淡い月明かりに浮かび上がり、まるで静止した絵画のようだった。
重厚なオーク材の執務机の上には、様々な報告書と外交文書が山積みになっていた。
国王アレクシス・フォン・ルーヴェンは、最後の羊皮紙に優雅かつ力強い署名を書き終え、羽根ペンを静かに置いた。
向かい側に座るのは、第一王子ヴィクトル。
蝋燭の炎だけが揺れる室内に、二人の影が長く伸びていた。
「それで」
国王が低く、重みのある声で切り出した。
「お前が直々に話したいと申したのは、あの娘──イリシア・ヴァルモンドの件であろう?」
ヴィクトルは背筋を伸ばし、姿勢を正した。
金色の瞳に、強い決意が宿っている。
「はい、父上」
「申してみよ」
ヴィクトルは静かに頷き、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。
もちろん、全てを話したわけではない。
ミレイユの存在や教会地下の残酷な実態、保守派の暗躍については、確証のある範囲に留め、核心の部分はぼかした。
しかし、イリシアが長期間国外へ出なければならないこと。
そのための表向きの理由が必要であること。
そして彼女が自らを犠牲にしてでも事を成そうとしていること──それらは正直に伝えた。
国王は最後まで一言も口を挟まず、黙って聞き続けていた。
時折、蝋燭の炎が小さく揺れ、彼の厳しい横顔を照らす。
やがて説明が終わり、長い沈黙が落ちた。
国王はゆっくりと目を閉じ、再び開いた。
「なるほど……」
深く、重い溜息と共に、彼は頷いた。
「だからあの娘は、婚約破棄を利用しようと考えたか」
「はい」
ヴィクトルは苦々しく答えた。
「ですが、私は反対です」
国王の眉がわずかに上がった。
「ほう?」
「彼女は国のために動いております。
民のために、危険へ自ら踏み込む覚悟もあります。そんな女性を、傷物にするような真似はしたくありません」
国王は息子をじっと見つめた。
やがて、ふっと口元を緩めた。
「随分と惚れているな」
「ええ」
ヴィクトルは迷いなく即答した。
「誰よりも」
国王は額を軽く押さえ、若い頃の自分を思い出したように苦笑した。
居たたまれないような、しかしどこか懐かしい表情だった。
「ならば婚約破棄は却下だ」
ヴィクトルの顔がぱっと上がった。
「父上……」
「そうだな……代わりに、別の理由を与えてやる」
国王はゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた巨大な大陸地図の前へ歩み寄った。
その指が、東方の海を越えた先にある一つの国を、力強く指し示した。
「神津国だ」
ヴィクトルも視線を向けた。
「あの娘の目的でもあるかの国には、我がルヴァン王国としても、以前から交易路の強化を考えていた」
「はい」
「ヴィクトル、王妃とはなんだと思う?」
突然の問いに、ヴィクトルがわずかに言い淀んだ。
「え、えっと……」
国王は静かに、しかし重々しく続けた。
「国の母だ。
国内しか知らぬ者に務まるほど、軽い地位ではない。
異国を知り、文化を知り、政治の機微を肌で感じる──その経験は、必ず必要になる。
お前もだ、我が息子よ」
ヴィクトルは少しずつ、父の意図を理解し始めた。
国王は地図から振り返り、厳しくも温かい眼差しを向けた。
「よって余は決定した。
ヴィクトル・フォン・ルーヴェン。
イリシア・ヴァルモンド。
双方を東方交易使節団の正副代表に任命する」
ヴィクトルが目を見開いた。
「カミツ国との外交交渉、その全権を任せる。
婚約は破棄ではない。見直しだ」
国王はさらに続けた。
「一定期間、未来の王妃としての資質を見極めるための公務とする。
その間の国外滞在は、全て王命によるものとなる。
成功すれば正式に未来の王太子妃。
失敗すれば婚約解消。
誰も異論など唱えられまい」
ヴィクトルは深く頭を下げた。
声に、抑えきれない感謝が滲む。
「ありがとうございます、父上」
国王は鼻を軽く鳴らした。
「勘違いするな。私は王国に利益のある選択をしただけだ」
「はい」
「それと」
国王は少しだけ、柔らかい笑みを浮かべた。
「その娘を泣かせるな」
「……善処いたします」
「善処ではない。必ずだ」
ヴィクトルは苦笑しながらも、力強く頷いた。
「承知いたしました」
その夜。
王城の奥深くで、東方交易使節団結成の準備が、静かではあるが着実に動き始めた。
銀月の悪役令嬢が目指す道は、王命という強力な後ろ盾を得て、新たな段階へと進もうとしていた。
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