行かないでくれ
鷹条の家と九重の家の考えは、先輩の気持ちとは違った。
けれども、私の恋は、帝都から春の香りが初夏の輝きに移ろうとしているのと並行して、煌めいていた。
詰襟姿に丸メガネの私は、二度目の桜の並木道を先輩と歩いた。
葉桜になり、私の世界は、新緑が芳しくもキラキラと輝くように、青春の光に溢れていた。
先輩が私の名前を呼ぶだけで、世界が変わった。
女学校を卒業して、私はその春18歳になった。舞のお稽古に師範として出る以外は、比較的自由な時間ができたのだ。
御香宮様のお屋敷の香席にはあれ以来通うのをパタリとやめていた。
舞のお稽古に来ている生徒が噂話をしているのを聞いたのは、その頃だった。
「この前、香席のあとでね……鷹条様と鹿乃子様が話されていたのだけれど……」
私は舞の稽古用の着物の襟を整えていた手をハッと止めた。
盗み聞きは良くないとは知っていたが、聞こえてしまい、話の続きに耳をすませてしまった。
「鷹条様は『鹿乃子さん、私の気持ちは私が分かります。父から話がありますから、今、私たちのことは話さないで欲しい』と、こう仰ったのよ」
私は止めていた息を静かにふうっとはいた。
「鹿乃子様は逆上なされたご様子で、泣いて帰られたのよ」
――えっ?
私は身がすくむ思いだった。
いつかの私の反対のことが鹿乃子様に起きたのだろうか。
胸がギュッと音を立てて縮み、私は鋭い痛みを感じて胸を抑えた。
――先輩と鹿乃子様……。
恐ろしい予感に私は得体の底知れない不安を感じて、空を見上げた。
もう、帝都の青い空は、新緑に彩られているにも関わらず、前と同じようには見えなかった。
その次の日だった。
鷹条雅親様と九重鹿乃子様の婚儀が公になった。
朝刊で大々的に報じられ、花房のお屋敷の使用人たちも、憧れを持ってその婚儀の噂話をしていた。
先輩と鹿乃子様が仲良く並んでいる写真が新聞に掲載されていた。
その日、舞のお稽古にきた生徒たちは、噂話に花を咲かせていた。
「鹿乃子様と鷹条様のやり取りを聞いて心配していたけれど、新聞にほら、婚儀が発表されたわね」
「羨ましいわ。お似合いのお二人で本当に素敵……」
その日はすでに日が暮れかかっていて、私が先輩と会う約束をした日ではなかった。
でも、私はいてもたってもいられなくなった。
風呂敷に詰襟を包むと、花房の屋敷の勝手口から外に飛び出した。
いつもの裏路地の柳の木の下では、涙が溢れていた。行き交う人が奇妙な目で私を見る。私は慌てて指先で涙を拭うと、うつむいて、菖蒲の家まで向かった。
――騙されていた……。
――先輩は、やはり、家族の方とのご結婚しか認められない。
――私などがおそばにいれるような方ではない。
――何を勝手に舞い上がっていたのだろう?
――私は何を期待していたのだろう?
菖蒲の家には誰もいないかもしれないと思っていたが、先輩がいた。
急に姿を現した私に、先輩は目を見張った。
雨が降ってきた。
「もう、いや」
「待て、おりん」
「もう、先輩のおそばにはいれません。これ以上は、先輩のお立場を……」
私は風呂敷包みを先輩の胸に押し付けるようにお渡しすると、そのまま走って菖蒲の家を飛び出そうとした。
「行くな、おりん!」
先輩は私の腕をつかんで、引き寄せた。引き止められて、そのまま先輩に口付けをされた。体がとろけるのに、胸が切なくて痛かった。
私は先輩の腕を振り解き、雨の中を飛び出した。だが、急に雨は土砂降りになった。いつかのように。
私は視界が真っ白になって思わず立ち止まってしまった。
後ろから追いかけてきた先輩に、私を後ろから抱き止められた。
首筋に、先輩の熱い息がかかり、「だめだ。行かないでくれ」と低い声で聞こえた。
「おりん、俺はおりんと結婚する。家のことは俺がなんとかする」
先輩は私と手を繋ぎ、菖蒲の家の中に私の手を引いて連れもどした。
「行かないでくれ。俺の花嫁はおりんしかいない」
先輩の唇が触れるたびに、私の体から力が抜けていった。 やめてと言いながら、やめてほしくなかった。
先輩の口付けは止まらなかった。
私は口付けに応えたが、やはりこのままでいけないと思って、先輩の胸を押しやった。
「……おやめくださいっ……」
私は泣いていた。
「おりんは俺のことがいやか?」
「嫌じゃないから、困っているんです……えっえっ……」
後から後から涙が込み上げてきて、私は肩を震わせて泣いた。
「おりん、びしょぬれだ。体がひどく冷えている。風邪を引くから風呂に入って行きなさい」
先輩は私を抱きしめて言った。
「ばあやはこの雨では帰ってこれない。鷹条の家に呼び出されて行ったが、風呂は湧いている」
私は泣いて泣いて、もう疲れ切っていた。
どうしたら良いのかわからない。
雨もひどいし、外に出れる雨ではなかった。
「これ、おりんに似合うと思って」
惚けたように玄関の上り口に座り込む私に、新しい浴衣を先輩が差し出した。
「これ、先輩が準備してくれていたんですか?」
先輩の顔を見上げると、先輩の目も赤かった。泣いたような顔をしていた。
――私のために……?
――先輩が私を思って浴衣をご用意してくださった……?
私の心はじんわりほぐれた。新しい浴衣からは、ふわりと白檀の香りがした。
ずぶ濡れで寒くなってきたので、素直に、お湯をいただいた。先輩がくれた新しい浴衣に袖を通した私を、先輩は静かに見つめて、火鉢の前に座るように促した。
火鉢の中の、炭が燃える様子を私はぼうっと見つめていた。
いつの間にか、先輩もお湯をもらったようだった。浴衣姿になった先輩も火鉢の前に座った。
先輩は私を胸に引き寄せ、そのまま唇を重ねた。
先輩の手が、私の浴衣の襟に触れ、私はハッとして身を引こうとした。
――だめっ……。
――お慕い申し上げているけれど、この方のそばにいてはいけない……。
でも、先輩は私の濡れた髪を優しく撫で、「好きだ」と言った。
「俺には、おりんしかいない」
低い声で囁き、私を透き通るような綺麗な瞳で見つめる先輩の胸に抱き寄せられた。
先輩の胸に頬を当てると、温かかった。
――もう、どうにでもいい……。
その夜、雨の音が止まない中、私は先輩に全てを捧げた。
先輩の指が、私の濡れた髪を解いていく。
先輩の唇は、何度も私の名を呼ぶように触れた。火鉢の向こうで、炭が赤く熾っている。
雨の音が止まらない夜だった。
その夜、先輩は、優しかった。
先輩は、鷹条の家に「好きな人がいる」と告げた。 先輩は相手の名は、まだ明かさなかった。鷹条家は私の事は知らないはずだった。
だが、その約束が、九重家と鷹条家を決定的に引き裂き、帝都の華族たちを揺るがすことになるとは、この時の私は、まだ知らなかった。
好きな人に触れられた場所は、いつまでも熱かった。




