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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第一章:華族様は花嫁にすると言ってくれた。忘れられた花嫁は、華族様に恋をしたあの夜を忘れられない
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今日は綺麗だな

その日、先輩は香席に遅れた。


御香宮(みかのみや)様のお屋敷の香席に、珍しい方がいらしていた。華族の九重鹿乃子(ここのえかのこ)さまだ。


九重家もまた、帝都で知らない者などいないほどの名家だった。

帝都の名門華族の令嬢で、とてもお美しい方。だが、高慢で気位の高いウブで純朴な宝石というのが真実の姿だ。矛盾した性格をお持ちの方だが、その日初めて出会った私は、全く知らなかった。私と激突するのは避けられなかったと思う。


「鹿乃子さん、もうすぐご婚儀だと伺いましたわ」


私のところまで、鹿乃子さまとご友人の方の話し声が聞こえてきた。わざと聞こえるようには話ていなかったと思うが、私が地獄耳であるかのようにその話題だけ私の耳に届いた。

  

「えぇ、父が鷹条のおじさまへ、早くお話を進めていただきたいと申し上げておりますの」

九重鹿乃子さまは、含み笑いをして微笑んだ。嬉しそうだ。透き通るような声の持ち主だ。


雅親(まさちか)様も、もう頃合いだとおっしゃってくださっておりますし」


私の指は、思わず香木を落とした。


――えっ!?


「あら、芸事のお家の方が香席にいらっしゃるの?まあ、場違いですこと」


あからさまな嫌味だ。


「本当に近頃はどうなっているのかしら。身の程を知らない方が増えましたこと」

 

――私のことだ。

 

今の嫌味は、私に聞こえるようにわざと言っているのが分かった。


――鷹条様と鹿乃子様はご結婚なさるの?


私は受けた衝撃と、芸事の家の娘と侮辱された事で、頭が真っ白になった。

帝都の貴公子に許嫁がいないなどと、なぜ考えたのか分からなかった。ただ、知らないふりをしたかったのかもしれない。しかし、侮辱と共に、鷹条様の美しい許嫁が目の前に現れたことで、私は無視できない事実に直面した。


――許嫁のこんな美しい令嬢がいらっしゃるのに、私は鷹条様とお会いしていたの?


自分があまりに何も知らないことに、私は打ちのめされた。


あまりのことに、指が震えてしまって、落とした香木をうまく拾えなかった。


「いやねぇ」

「身の程知らずがこんなところまで出てくるから」

「お里が知れますわね」


もう一度、嫌味が聞こえた。

 

「……失礼致します……」

 

ただの女学生だった私は、いたたまれずに、香席の部屋を飛び出してしまった。


すれ違い様に、一条家の令嬢が「邪魔なのよ!」と強く囁いた。私は耳を塞ぎたかった。



侮辱されたこと、帝都の貴公子と華族の九重鹿乃子様の婚儀の話が進んでいること、その両方で奈落に落ちたように体が震えた。


私だけが知らない事実があった。


――私は一体何をしていたのだろう?



どれほどそこにいたのだろう。

物陰にうずくまっている間に、どれほどの時間が過ぎたのかわからなかった。


でも、このまま香席の場には戻れないと思った。

帰ろうとして、フラフラと御香宮(みかのみや)様のお屋敷の門の方に歩いた。


その時、鹿乃子様のあの透き通るような声が聞こえたような気がして、ビクッとして立ち止まった。


物陰から覗くと、帝都の貴公子の後ろ姿と鹿乃子様の姿が見えた。


「鷹条のお家も大変でしょう?早く婚儀を進めた方がいいと父も申しておりますの」


鹿乃子様のお美しい顔が見えた。甘えた様子で、先輩の腕に腕を絡めている。


――鷹条のお家も大変……。


そうか、お二人は家同士の約束をした許嫁なのだと私は理解したのだ。


政略結婚なのだろうか。


ならば、本当に、私のような者が、鷹条様のおそばにいてはいけないのだと、冷や水を浴びたように理解した。


そこから先はうろ覚えだ。


雨上がりの石畳を、私は夢中で走って帰ったと思う。


靴も履かずに、泣きながら花房の屋敷まで戻った。どこをどう通って屋敷まで戻ってきたのか、覚えていない。


帝都の貴公子に出会えて、おそばにいられて、一緒に色んなところに行けて、幸せだった。でも、それは全部幻想だったのだ。


私の勘違いだ。恥ずかしいぐらいの勘違いを私はしていたのだと悟った。


私は泣いた。

――私などが、貴公子の隣に立てるはずがない。


――夢を見ていたのだ……。

――身分の釣り合わぬ私には、最初から貴公子との恋などありえないものだった……。


私は世の中がまるで分かっていなかった。


泣いて、泣いて、納戸の奥に隠していた詰襟を手に取った。

泣きながら風呂敷に包んだ。


――お別れをしなければならない……。

――もう、先輩にお会いしてはならない。


帝大生のふりをした私は、鷹条雅親様のことを「先輩」と呼んでいたのだ。


最初にその呼び名を発案したのは、貴公子ご本人だった。


桜の花見に行ったとき、帝都の貴公子は私の丸メガネをそっと直して、ささやいた。


「おりんちゃん、帝大生の後輩ということにしよう。だから、俺のことは先輩と呼んでくれるか」


「……はい……先輩……」


帝都の貴公子は、満開の桜の花びらより眩しく華やかな笑顔で私を見た。


「後輩、よろしく」



――でも、本当はそんなの意味がないことだった。


私の儚い夢だ。

バカな私だ。


私と帝都の貴公子には、並んで歩くことも許されないほどの身分の差がある。

私などがお近づきになってはならないお方。


――せめて、今日だけは、最後だけは……。


私は泣きながら着替えた。

 

最後のお別れだからと、私は、この前仕立ててもらった、薄紅の着物を着た。

――もう、先輩とはお別れだ。


この着物は、恋する私が浮かれて仕立ててもらった、唯一の、女性らしい娘らしい着物だった。


いつもの香席でお会いする女学生の格好とは大違いの、貴公子と帝都の街を散策する帝大生のふりをした私とは大違いの、今の私の気持ちだった。


――でも、今日で、それもおしまい……。

――先輩に、綺麗だと思っていただけたら、それだけでいい。


私はもはや歩き慣れた菖蒲の家までの道のりを歩いた。

何度この道を通ったことだろう。


詰襟を着込んだ上にハイカラな道行コートを羽織り、花房の屋敷を勝手口から出て、小さな路地の柳並木の下まで来ると、いつも道行コートの紐を解いた。風呂敷に道行コートを包み、詰襟を整えてメガネをする。


そして、菖蒲の家に向かって歩いて行く。


夏もわざわざ羽織を着て、私は白い詰襟を着ていることを隠していた。

 

夏のホタルを一緒に見た日、夏祭りの帰りに一緒に甘い綿菓子を食べた日、海へ行った日、秋の紅葉を見に行った日、どれもこれも、私の身には過ぎたことだった。



泣いてはならない。

でも、涙は止まらなかった。


菖蒲の家まできて、足がすくんだ。

どう説明しようか悩んだ。


「身の程知らずが……」


先程言われたその言葉が、私の心に重くのしかかった。


――今日でお別れを申し上げるしかない。



帝都の貴公子の菖蒲の家は、いつもと変わらなかった。

それが、余計に私の心を悲しくさせた。



「やぁ、おりん」


帝都の貴公子は、私の姿を見て、初めて「おりん」と呼んでくれた。


「今日は綺麗だな」


薄紅の着物を着た私に目を見張るようにした貴公子は、風呂敷を受け取ると、そのまま縁側に無造作に置いた。


「何?」


「……お返しいたします……詰襟をお貸しいただきましてありがとうございました……私などが、先輩の隣に立てるはずがなかったのでございます……」


声が震えた。


「どうしたの」

「……せ……先輩に、い……許嫁がいらっしゃるのに、大変失礼いたしました。もう……もう……お会いできな……」


「おりん、そうだ、新しいメガネがあるんだ」


貴公子はいきなりそう言って私の言葉を遮った。彼は部屋の中に駆け込んで、真新しい金縁のメガネを持ってすぐに戻ってきた。


「な……何でございますか……」

「ほら、目をつぶって」


彼の声が近かった。

頬に触れる指先が熱い。

私は言われるがまま、そっと目を閉じた。


その瞬間、温かくて柔らかな貴公子の唇が、私の唇に落ちてきた。

 

――あっ!

 

私は思わず目を開けた。体の芯からさらわれたように、何かが蕩けた。

私は貴公子の顔を見上げた。

透き通るようなきらきらした瞳が私の目の前にあった。


彼の温かな両手が私の肩を抱きしめて、また彼の唇が私の唇に触れた。


「な……なんで……」


「おりんと離れたくないから。これで終わりになんかしたくないから。おりんが好きだから」


柔らかな唇がまた私の唇に落ちてきて、私はなすすべもなくそれを受け入れた。


貴公子は、私の頬に触れたまま、まっすぐに私を見た。


「俺の相手は、おりんだけ」


帝都の貴公子はそう言った。


貴公子の温かな胸に顔を埋めながら、私は思った。

――この幸せは、いつまで続くのだろう?ずっと続いて欲しい……。


私たちは、口付けをしただけだった。

だが、しかし口付けだった。


女学生の私にとっては、大事件だった。








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