行かないでくれ
鷹条の家と九重の家の考えは、先輩の気持ちとは違った。
けれども、私の恋は、帝都から春の香りが初夏の輝きに移ろうとしているのと並行して、煌めいていた。その後に起きたことを考えれば、よくバレなかったと思う。帝都の貴公子に対する略奪愛は、今から思えば水面下で進んでいたのだ。もちろん、私が泥棒猫だ。その時までには、許嫁の存在と、許嫁の相手様を知っていたのだから。
だが、前世を思い出したからこそ、自分の当時の立ち位置が分かるのであって、この時、恋に夢中の私は何も分かっていなかった。
詰襟姿に丸メガネの私は、二度目の桜の並木道を帝都の貴公子と歩いた。
葉桜になり、私の世界は、新緑が芳しくもキラキラと輝くように、青春の光に溢れていた。
帝都の貴公子が私の名前を呼ぶだけで、世界が変わった。
女学校を卒業して、私はその春18歳になった。舞のお稽古に師範として出る以外は、比較的自由な時間ができた。女学生の頃から、見合いの話はいくつも来た。でも、やんわりと断っていた。いつしか、見合いの話そのものが来なくなっていた。
御香宮様のお屋敷の香席にはあれ以来通うのをパタリとやめた。九重鹿乃子様に会うのが恐ろしかった。
帝都の女学生たちは、先輩を「帝都の貴公子」と呼び続けていた。
けれど私にとっての貴公子は、詰襟に丸眼鏡姿の私と共に帝都を巡る人だった。恋人というとおこがましい。だが、彼のことが本当に大好きだった。
あぁ、最低最悪だ。
帝都の貴公子に夢中の私は、のめり込んでいた。
舞のお稽古に来ている生徒が噂話をしているのを聞いたのは、その頃だった。
「この前、香席のあとでね……鷹条様と鹿乃子様が話されていたのだけれど……」
私は舞の稽古用の着物の襟を整えていた手をハッと止めた。
盗み聞きは良くないとは知っていたが、聞こえてしまい、話の続きに耳をすませてしまった。
鹿乃子様と鷹条様……。
お二人は、正式にはまだ許嫁同士の身。
「鷹条様は『鹿乃子さん、私の気持ちは私が分かります。父から話がありますから、今、私たちのことは話さないで欲しい』と、こう仰ったのよ」
私は止めていた息を静かにふうっとはいた。
「鹿乃子様は逆上なされたご様子で、泣いて帰られたのよ」
――えっ?
身がすくむ思いだった。
いつかの私の反対のことが鹿乃子様に起きたのだろうか。
胸がギュッと音を立てて縮み、私は鋭い痛みを感じて胸を抑えた。
――先輩と鹿乃子様……。
恐ろしい予感に私は得体の底知れない不安を感じて、空を見上げた。世界が変わって見えた。
泥棒猫の終わりが見えていた。
帝都の青い空は、新緑に彩られているにも関わらず、前と同じようには見えなかった。
その次の日だった。
鷹条雅親様と九重鹿乃子様の婚儀が公になった。
朝刊で大々的に報じられ、花房のお屋敷の使用人たちも、憧れを持ってその婚儀の噂話をしていたのだ。私は新聞を見た途端、どうにかなってしまいそうだった。
先輩と鹿乃子様が仲良く並んでいる写真が新聞に掲載されていたのだ。
その日、舞のお稽古にきた生徒たちは、噂話に花を咲かせていた。
「鹿乃子様と鷹条様のやり取りを聞いて心配していたけれど、新聞にほら、婚儀が発表されたわね」
「羨ましいわ。お似合いのお二人で本当に素敵……」
その日は、私が先輩と会う約束をした日ではなかった。
でも、私はいてもたってもいられなくなった。
夕方、風呂敷に詰襟を包むと、花房の屋敷の勝手口から外に飛び出した。
いつもの裏路地の柳の木の下では、涙が溢れていた。行き交う人が奇妙な目で私を見た。心が散り散りになっていたので、おそらく着物の袂も少し乱れていたのだろう。私は慌てて指先で涙を拭うと、うつむいて、菖蒲の家まで向かった。
――騙されていた……。
――先輩は、やはり、家族の方とのご結婚しか認められない。
――私などがおそばにいれるような方ではない。
――何を勝手に舞い上がっていたのだろう?
――私は何を期待していたのだろう?
菖蒲の家には誰もいないかもしれないと思っていたが、貴公子がいた。
急に姿を現した私に、彼は目を見張った。
雨が降ってきた。
「もう、いやです」
「待て、おりん」
「もう、先輩のおそばにはいれません。これ以上は、私がいたら、先輩のお立場を……傷つけてしまいますので」
私は風呂敷包みを貴公子の胸に押し付けるようにお渡しすると、そのまま走って菖蒲の家を飛び出そうとした。
「行くな、おりん!」
先輩は私の腕をつかんで、引き寄せた。引き止められて、そのまま先輩に口付けをされた。体がとろけるのに、胸が切なくて痛かった。
私は貴公子の腕を振り解き、雨の中を飛び出した。だが、急に雨は土砂降りになった。いつかのようだった。
私は視界が真っ白になって思わず立ち止まってしまった。
後ろから追いかけてきた貴公子に、後ろから抱き止められた。
首筋に、貴公子の熱い息がかかり、「だめだ。行かないでくれ」と低い声で聞こえた。
「おりん、俺はおりんと結婚する。家のことは俺がなんとかする」
彼は私と手を繋ぎ、菖蒲の家の中に私の手を引いて連れもどした。
「行かないでくれ。俺の花嫁はおりんしかいない」
彼の唇が触れるたびに、私の体から力が抜けていった。 やめてと言いながら、やめてほしくなかった。
貴公子の口付けは止まらなかった。
私は口付けに応えたが、やはりこのままでいけないと思って、貴公子の胸を押しやった。
「……おやめくださいっ……」
私は泣いていた。
「おりんは俺のことがいやか?」
「嫌じゃないから、困っているんです……えっえっ……」
後から後から涙が込み上げてきて、私は肩を震わせて泣いた。
「おりん、びしょぬれだ。体がひどく冷えている。風邪を引くから風呂に入って行きなさい」
貴公子は私を抱きしめて心配して言った。
「ばあやはこの雨では帰ってこれない。鷹条の家に呼び出されて行ったが、風呂は湧いている」
私は泣いて泣いて、もう疲れ切っていた。
どうしたら良いのかわからない。
雨もひどいし、外に出れる雨ではなかった。
「これ、おりんに似合うと思って」
惚けたように玄関の上り口に座り込む私に、貴公子が新しい浴衣を差し出した。
「これ、先輩が準備してくださっていたんですか?」
貴公子の顔を見上げると、彼のの目も赤かった。泣いたような顔をしていた。
――私のために……?
――先輩が私を思って浴衣をご用意してくださった……?
私の心はじんわりほぐれた。新しい浴衣からは、ふわりと白檀の香りがした気がした。
ずぶ濡れで寒くなってきたので、素直に、お湯をいただいた。だいぶ逡巡したが、あまりの雨で、諦めてお風呂をいただいたのだ。
貴公子がくれた新しい浴衣に袖を通した私を、彼は静かに見つめて、火鉢の前に座るように促した。
火鉢の中の、炭が燃える様子を私はぼうっと見つめていた。
いつの間にか、貴公子もお湯をもらったようだった。濡れ髪に浴衣姿になった貴公子も火鉢の前に座った。
貴公子は私を胸に引き寄せ、そのまま唇を重ねた。
彼の手が、私の浴衣の襟に触れ、私はハッとして身を引こうとした。
――だめっ……。
――お慕い申し上げているけれど、この方のそばにいてはいけない……。
でも、貴公子は私の濡れた髪を優しく撫で、「好きだ」と言った。
「俺には、おりんしかいない」
低い声で囁き、透き通るような綺麗な瞳で見つめながら、貴公子は私を胸に抱き寄せた。
彼の胸に頬を当てると、温かかった。
――もう、どうにでもいい……。
その夜、雨の音が止まない中、私は帝都の貴公子に全てを捧げた。
貴公子の指が、私の濡れた髪を解いていく。
彼の唇は、何度も私の名を呼ぶように触れた。火鉢の向こうで、炭が赤く熾っている。
雨の音が止まらない夜だった。
その夜、帝都の貴公子は、優しかった。
***
彼は、鷹条の家に「好きな人がいる」と告げた。 先輩は相手の名は、まだ明かさなかった。鷹条家は私の事は知らないはずだった。
だが、その約束が、九重家と鷹条家を決定的に引き裂き、帝都の華族たちを揺るがすことになるとは、この時の私は、まだ知らなかった。
私はとうとうやってしまった。
鷹条様と私の関係を決定的に変えてしまったのだ。
大変な騒ぎになるとは、予感はあった。




