今日は綺麗だな
その日、先輩は香席に遅れた。
御香宮様のお屋敷の香席に、珍しい方がいらしていた。華族の九重鹿乃子さまだ。
九重家もまた、帝都で知らない者などいないほどの名家だった。とてもお美しい方だった。
「鹿乃子さん、もうすぐご婚儀だと伺いましたわ」
私のところまで、鹿乃子さまとご友人の方の話し声が聞こえてきた。
「えぇ、父が鷹条のおじさまへ、早くお話を進めていただきたいと申し上げておりますの」
九重鹿乃子さまは、含み笑いをして微笑んだ。嬉しそうだ。
「雅親様も、もう頃合いだとおっしゃってくださっておりますし」
私の指は、思わず香木を落とした。
――あっ!
「あら、芸事のお家の方?香席にいらっしゃるの?まあ、場違いですこと」
「本当、近頃、どうなっているのかしら。身の程を知らない方が増えましたこと」
――私のことだ!
私に聞こえるようにわざと言っているのが分かった。
――鷹条様と鹿乃子様はご結婚なさるの?
私は受けた衝撃と、芸事の家の娘と侮辱された事で、頭が真っ白になった。
あまりのことに、指が震えてうまく落とした香木を拾えない。
「いやねぇ」
「身の程知らずがこんなところまで出てくるから」
「お里が知れますわね」
もう一度聞こえた。
「……失礼致します……」
私はいたたまれずに、香席の部屋を飛び出してしまった。
侮辱されたこと、先輩と華族の九重鹿乃子様の婚儀の話が進んでいること、その両方で奈落に落ちたように体が震えた。
どれほどそこにいたのだろう?
私が物陰にうずくまっている間に、どれほどの時間が過ぎたのかわからない。
でも、このまま香席の場には戻れないと思った。
帰ろうとして御香宮様のお屋敷の門の方に歩いた。
その時、鹿乃子様の声が聞こえたような気がして、ビクッとして立ち止まった。
物陰から覗くと、先輩の後ろ姿と鹿乃子様の姿が見えた。
「鷹条のお家も大変でしょう?早く婚儀を進めた方がいいと父も申しておりますの」
鹿乃子様のお美しい顔が見えた。甘えた様子で、先輩の腕に腕を絡めている。
――鷹条のお家も大変……。
私は、お二人が家同士の約束をした許嫁なのだと理解した。
政略結婚なのだろうか。
私のような身分の者が、鷹条様のおそばにいてはいけないのだと、冷や水を浴びたように理解した。
雨上がりの石畳を、私は夢中で走った。
そこからはよく覚えていない。
靴も履かずに、泣きながら花房の屋敷まで戻ったようだった。どこをどう通って屋敷まで戻ってきたのか、覚えていなかった。
私は泣いた。
――私などが、先輩の隣に立てるはずがない。
――夢を見ていたのだ……。
――身分の釣り合わぬ私には、最初から先輩との恋などありえないものだった……。
私は世の中がまるで分かっていなかった。
泣いて、泣いて、納戸の奥に隠していた詰襟を手に取った。
泣きながらそっと風呂敷に包んだ。
――お別れをしなければ……。
――もう、先輩にお会いしてはならない。
帝大生のふりをした私は、鷹条雅親様のことを「先輩」と呼んでいたのだ。
最初にその呼び名を発案したのは、先輩ご本人だった。
桜の花見に行ったとき、先輩は私の丸メガネをそっと直して、ささやいた。
「おりんちゃん、帝大生の後輩ということにしよう。だから、俺のことは先輩と呼んでくれ」
「……はい……先輩……」
先輩は、満開の桜の花びらより眩しく華やかな笑顔で私を見た。
「後輩、よろしく」
――でも、本当はそんなの意味がないことだったのだ。
私と先輩には、並んで歩くことも許されないほどの身分の差がある。
私などがお近づきになってはならないお方。
――せめて、今日だけは、最後だけは……。
私は泣きながら着替えた。
最後のお別れだからと、私は、この前仕立ててもらった、薄紅の着物を着た。
――もう、先輩とはお別れだ。
この着物は、恋する私が浮かれて仕立ててもらった、唯一の、女性らしい娘らしい着物だった。
いつもの香席でお会いする女学生の格好とは大違いの、先輩と帝都の街を散策する帝大生のふりをした私とは大違いの、今の私の気持ちだった。
――でも、今日で、それもおしまい……。
――先輩に、綺麗だと思っていただけたら、それだけでいい。
私はもはや歩き慣れた菖蒲の家までの道のりを歩いた。
何度この道を通ったことだろう。
詰襟を着込んだ上にハイカラな道行コートを羽織り、花房の屋敷を勝手口から出て、小さな路地の柳並木の下まで来ると、いつも道行コートの紐を解いた。風呂敷に道行コートを包み、詰襟を整えてメガネをする。
そして、菖蒲の家に向かって歩いて行く。
夏もわざわざ羽織を着て、私は白い詰襟を着ていることを隠していた。
夏のホタルを一緒に見た日、夏祭りの帰りに一緒に甘い綿菓子を食べた日、海へ行った日、秋の紅葉を見に行った日、どれもこれも、私の身には過ぎたことだった。
泣いてはならない。
でも、涙は止まらなかった。
菖蒲の家まできて、足がすくんだ。
「身の程知らずが……」
先程言われたその言葉が、私の心に重くのしかかった。
――今日でお別れを申し上げるしかない。
菖蒲の家はいつもと変わらなかった。
それが、余計に私の心を悲しくさせた。
「やぁ、おりん」
先輩は、私の姿を見て、初めて「おりん」と呼んでくれた。
「今日は綺麗だな」
薄紅の着物を着た私に目を見張るようにした先輩は風呂敷を受け取ると、そのまま縁側に無造作に置いた。
「何?」
「……お返しいたします……詰襟をお貸しいただきましてありがとうございました……私などが、先輩の隣に立てるはずがなかったのでございます……」
声が震えた。
「どうしたの」
「……せ……先輩に、い……許嫁がいらっしゃるのに、大変失礼いたしました。もう……もう……お会いできな……」
「おりん、そうだ、新しいメガネがあるんだ」
先輩はいきなりそう言って私の言葉を遮った。先輩は部屋の中に駆け込んで、真新しい金縁のメガネを持ってすぐに戻ってきた。
「な……何でございますか……」
「ほら、目をつぶって」
先輩の声が近かった。
頬に触れる指先が熱い。
私は言われるがまま、そっと目を閉じた。
その瞬間、温かくて柔らかな先輩の唇が、私の唇に落ちてきた。
――あっ!
私は思わず目を開けた。体の芯からさらわれたように、何かが蕩けた。
私は先輩の顔を見上げた。
透き通るようなきらきらした瞳が私の目の前にあった。
先輩の温かな両手が私の肩を抱きしめて、また先輩の唇が私の唇に触れた。
「な……なんで……」
「おりんと離れたくないから。これで終わりになんかしたくないから。おりんが好きだから」
柔らかな唇がまた私の唇に落ちてきて、私はなすすべもなくそれを受け入れた。
先輩は、私の頬に触れたまま、まっすぐに私を見た。
「俺の相手は、おりんだけ」
先輩はそう言った。
先輩の温かな胸に顔を埋めながら、私は思った。
――この幸せは、いつまで続くのだろう。




