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好きだな、と先輩は言った

その日、朝に香席があった。


終わって外に出ると、御香宮家のお屋敷の門の外には、鷹条家の人力車が待っていた。


「乗っていきなさい。雨だ。花房のお屋敷まで送りますから」


先輩は、私にそう言った。

舞の家元である花房の家は、広大な敷地の屋敷を、5つの通りを隔てた所に構えていた。


「でも、歩けば近いですから」

「いいですよ。どうせ、通り道です」


鷹条家はさらに西の方に屋敷を構えていた。


――鷹条様と一緒に……?


私は戸惑ったが、雨は止みそうにもなかった。


「ありがとうございます」



素直に言葉に甘えた。

憧れのお方のお誘い。

私が断る理由は無かった。


胸のときめきは、雨なのに、高まっていた。



人力車の中は狭い。

先輩の肩と私の肩が何度も触れ合った。


通りを抜けようとした時、急な土砂降りになった。嵐のように雨が降り、滝のような雨で耳も聞こえなくなるような雨だった。


「まずい……君!鷹条の菖蒲の家に行ってくれ」


人力車を引く人夫に大声で先輩が伝えた。

そのまま、ずぶ濡れの私たちは、人力車に乗ってすぐ近くの小さな屋敷に入った。


「りんさんも来なさい。ここで雨宿りしていきなさい」


「はいっ……」


私は先に降りた先輩の手につかまり、前も見えないほどの雨の中、人力車を降りて、その屋敷の軒下に立った。


「何をしている、上がりなさい」


先輩は、少し面倒くさそうに私に言って、屋敷のお座敷に中に上がるように言った。

 

「……でも……」

「ばあや、いるかい?」


先輩は私の戸惑いなど気にせず、どんどん玄関から中に入っていく。


「なんだ、いないのか」

 

先輩の声が遠くでしたと思った。


手拭いを持って先輩がやってきて、私に渡した。


「この雨が止むまでは動けないだろう。上がって火鉢に当たりなさい」


私は濡れた足袋を脱ぎ、手拭いで足を拭った。


「……失礼致します……」


「あぁー、着替えか。ばあやがいれば何かあったんだが……うん、これでいい」


先輩は、詰襟の制服を私に渡した。


「えっ?」


「すまないが、着替えは今これしかない。私も向こうで着替えるから、りんさんもすぐに着替えた方がいい。風邪を引く。着替えにはそこの部屋を使っていいから」


先輩はそれだけ言うと、隣にあった襖が閉まった部屋を指さし、奥に姿を消して閉まった。


ポタポタ……


雫が私の着物から垂れていた。


あぁっ。

いけない。畳が濡れてしまう……。


慌てた私は先輩に言われた通りに、隣の襖を開けて、そこで着物を脱ぎ、先輩に渡された詰襟の服を着た。

じゅばんから何から何まで濡れていた。


お勝手を借りて、濡れた着物をきつくきつく絞った。


「あぁ、着替えんたんだね」


先輩の声が後ろからして、振り返った。


「ぷっ」


先輩は私を見るなり吹き出した。堪えきれないように肩を震わせている。


「……なっ……なんでしょうか?」


「何って君……似合っている」


先輩は楽しそうに笑って私に微笑んだ。

 

そんな笑顔を初めて見た。

――綺麗……。


私の心に不思議な炎のようなものが宿った。


――そんなに嬉しそうに笑う鷹条様のお顔を初めて見た……。


「うん、よく似合う」


先輩は上機嫌で私にそう言った。


「あの……ここで乾かしてもいいでしょうか?」


「あぁ、いいよ」


私は軒下の洗濯物を干す場所を借り、ついでに先輩が元々きていた詰襟も干した。


「全然、やまないなぁ」


先輩は着物に着替えていた。着崩したその着物の襟から、先輩の普段見えない素肌が見えて、妙に大人っぽくて、私はドキドキした。


だが、先輩は、ひたすら、私の顔を見ては吹き出すと言うのを繰り返した。


「鷹条様、そんなに笑われると恥ずかしいです」


私は真っ赤になって抗議した。


「ごめん、ごめん……あっそうだ!」


先輩はどこかに走るように行った。


火鉢の前で温まる私の前に先輩は戻ってきて、私ににっこりと微笑んだ。


「ね、こっち見て」


私は先輩の両手が私の顔に近づいてきたので、身をすくめた。


……なっなんでしょう?


スッと細くて硬いツルのようなものが私の顔にかけられた。


「うん、いいなぁ。これ、似合うよ!」


先輩は、私にメガネをかけてくれた。


「花房りんさんとは、誰も思わないな。でも、私は好きだな」


先輩の口から出た「好きだな」と言う言葉が、私の耳奥で不思議な力を持って心に落ちた。


――好きだな、ですか……?


私は真っ赤になった。


「西洋から買ってきたんだ。でも、使い道が無かったけど、今のあなたによく似合う」

 

先輩はそう言って楽しげに笑った。


「……ますます変ってことでしょうか……?」

「いいや、私の好みだ」


先輩はキッパリとそう言って、私の肩を叩いた。


「ばあやもこの雨じゃ、帰ってこれないなぁ」


先輩はぼんやり呟くと、窓から空を見上げた。

 

「あ……お昼……私、お昼ご飯を用意しましょうか?」


私の申し出に、先輩は呆気に取られたように私を見つめた。


「その格好で?」


先輩はいよいよ声を出して朗らかに笑った。心から楽しそうだった。


こんな先輩を見たのは、初めてだった。

私は少し舞い上がった。

憧れの鷹条様にもっと笑って欲しくて、欲張った。


「はい、この格好でお支度させてただきます」


お勝手を勝手に使うのは気が引けたが、お昼時で先輩もお腹が空いているだろう。


そう思って、私は卵焼き、お味噌汁を作った。お米も炊いた。


雨の中で待っていてくれた人夫さんにも、お茶と食事を運んだ。


「りんさんは、器用だね」


詰襟姿で私がバタバタとしているのを見て、先輩はそう声をかけた。


「いえ……せめて今日の雨宿りのお礼です」


「鶴の恩返しみたいだな。りんさんも一緒にいただこう」


先輩はそう言うと、私が用意した食事を食べ始めた。


「りんさんも、一緒に」


再度促されて、私は部屋の端っこにお盆を持ってきて、食べ始めた。


「うん、うまい」



雨は止みそうもなく、私たちは土砂降りの雨音を聴きながら、食事をした。


「この格好、意外と動きやすいです」


私はふと本音を漏らした。


「そっか。気に入ったかぁ」


まだメガネをつけたままの私が味噌汁の湯気でメガネを曇らせながら言うと、先輩は笑った。


「雨が止んだら、送ってあげるよ。でも、着物は乾かない。だから、その格好で今日は帰りなさい」


私はそう言われて、素直にうなずいた。

 

食事が済んで、半時あまり、私はお勝手でおかたづけをした。


なぜか、先輩がかけてくれたメガネを取りたくなかった。


先輩が笑ってくれたから、だと思う。


「りんさん、雨が止んできた!」

 

先輩が声をかけてくれた時は、もうお昼の3時を過ぎていたと思う。


私は慌てて軒下に干した着物を取り込み、風呂敷に包んだ。


今日はこのまま詰襟姿で帰るしかないと思った。


先ほど食事を運んだ人夫が、人力車を門のところまで出してくれていた。


「送ろう。さ、俺も鷹条の屋敷まで帰る」


先輩が手を差し伸べて、私の手を握った。その温かな手に私はドキッとしたが、高鳴る胸を押さえて、人力車の先輩の横に座った。


人力車がゆっくりと動き出すと、私は時折、先輩の着物の胸に倒れ込みそうになった。胸が少し開いた着方をした先輩は、大人っぽくて、驚くほど美しい横顔で、私の心臓はどきどきと鳴り、今にも飛び出しそうだった。


「あ、にじ!」


先輩が急に言って私も顔を上げた。


雨で増水した川の向こうに、大きな美しい七色の虹がかかっていた。


「きれい……」


思わずつぶやいた。


本当に綺麗な虹だった。

先輩のすぐ横で見る虹だからか、私の目には生まれて初めて見るような美しさを感じた。



「綺麗だな」



先輩の低い声が耳元でして、私はハッとして振り向いた。

先輩は私の顔を見つめていた。


メガネをして詰襟を着た私の顔を。



「桜は好きですか?」


不意に先輩に聞かれた。

その透き通った瞳に吸い込まれそうだ。


「はい……好き……です」


思わず、先輩のことを好きだと言ったような錯覚に陥り、私は真っ赤に頬を染めた。


体がカッと熱くなった。


「そっか。じゃ、次の土曜日、その詰襟であの家に来て。一緒に花見に行こう」


聞き間違えじゃないかと思った。

ハッとした顔の私の鼻を先輩は人差し指でそっとつついた。


「聞いてた?おりんちゃん、一緒に花見に行こう」


「は……はいっ!」


私は真っ赤な顔のままで勢いよく返事をした。


先輩は満面の笑みになった。とても楽しそうな笑顔だった。


胸の高鳴りが最高潮に達した。息ができているかわからない。


「ほら、ついたよ」


私は先輩に手を差し伸べられて、花房の屋敷の前で人力車を降りた。


「じゃ、土曜日ね。お昼の1時に待っているから」


そう囁いた先輩は、人力車に乗り、去って行った。

先輩の人力車が通りを見えなくなるまで見送ると、私は、そっと勝手口から屋敷に入った。


胸の鼓動は早鐘のように打っていた。

鷹条様と私の秘密の逢瀬は、こうして始まった。


詰襟とメガネで帝大生のふりをした私を連れて、先輩は帝都のいろんな所に行った。


桜の花見、夜の縁日、河原で夕涼み、花火、かき氷、お汁粉などの甘い物巡り、ハイカラな女学生たちの間を抜けて、男子学生に男装した私は、先輩と一緒に帝都を巡ったのだ。


憧れは、すぐに恋に変わった。

あの雨の日から、先輩の笑顔が、頭から離れなくなった。


好きだ、と気づいたのは、いつだったろう。

たぶん、あの虹を見た時だったと思う。




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