旦那様と呼ぶたびに
小さな屋敷だった。
九重家の屋敷に比べれば、庭も小さく、邸宅も小さい。女中も長州のご実家から連れてきたという方が一人だけだった。女中の名前は「フミさん」と言った。
見合いの夜に、父と母に居間に呼ばれて、結婚が決まったと聞かされた。
九重家としては、一刻も早く嫁がせたかったのと、お相手の方が海軍士官だったので、船で沖に出てしまう関係もあり、三日後が結婚式だと言われた。
母の白無垢を着て、結婚式が執り行われたのは、本当にそれから三日後のことだった。
私は式の間中うつむいていて、大層美男子だと思った朝霧玲央様の姿をほんの一瞬見ただけだった。彼は黒紋付羽織袴を着ていた。祝言は、九重家が準備した料亭で執り行われた。
その日のうちに、私は荷物をまとめて朝霧玲央様の邸宅にやってきた。
九重家から運び込まれた嫁入りの家財道具は少なかった。屋敷が小さいため、沢山持ってきてはならないと、知らせがあったのだ。
黒塗りの鏡台、桐箪笥、長持、火鉢、行灯、文机、蓄音機、振り子時計、英国製の紅茶セットなどを運び込まれた。
まだ寒い1月のその日、私は晴れて嫁入りをしたのだ。
幼い頃から思い描いていたのとはかけ離れていたが、帝都中から嘲笑われる私を花嫁にしてくださったそのお方は、無口な二十七歳の海軍士官だった。
また一言も会話したことが無かったので、不安で不安で仕方が無かった。
離縁だと言われたら、どうしようと怖かった。
「よろしくお願いします」
「まぁ、本当に綺麗なお嬢様。ようこそ、長州にいる頃からぼっちゃまのお世話をしているフミでございます」
居間には軍刀が飾ってあった。イギリスの王立士官学校帰りだと聞いていたが、ずいぶん質素な生活ぶりだと思った。
すぐに私とフミさんは片付けを始めて、朝霧玲央様がご帰宅される頃には、家中がすっかり片付いていた。
「ずいぶん、狭くなったな」
「あっ、申し訳ございません」
家に帰るなり、呆気に取られた様子でそう呟いた声が私の耳に届き、私は慌てた。
軍服から着替える際、手が触れた。
何かに弾かれたかのように、私は手を引っ込めた。
残像が見えたのだ。
帝に呼ばれて行ってらしたのか、そう思った。
帝の顔が見えて、結婚祝いだと言って、何かを渡されているのが見えたからだ。
「なんです?」
不思議そうな顔で私を見る朝霧玲央様のお顔を私は見つめて、慌てた。
「あの旦那様、お夕飯の準備ができておりますが、お風呂になさいますか?」
その瞬間、朝霧玲央様は、その美青年っぷりが大層噂の瞳を激しく瞬かせて、ポッと顔を赤めた。
「あなたは、その……手がずいぶん荒れていますよね。それはあかぎれではないのですか?」
私の質問には答えてくれず、朝霧玲央様は、私に逆に質問した。
「これは・・家事手伝いを花嫁修行としてしていたからです」
帝都の貴公子に振られたから、父と母にさせられていた、とは言えない。
「そうなんですか。フミさんもいますから、あまり無理をされないように。先にお風呂をいただきます」
「はい、旦那様」
私が答えると、こそばゆいのか、一瞬天井をみ見つめる仕草をした旦那様は、そのまま風呂場に行かれた。
フミさんに助けを求めて、旦那様の着替えを慌てて準備した。殿方の着替えに触れたことがないので、私は挙動不審になった。
「あの……ここにお着替えを置いておきます」
私が風呂場に声をかけると、ガタっと何か音がして、そのまま音がしなくなった。
「旦那様、大丈夫でしょうか?」
声をかけると、静かな声が返ってきた。
「あぁ、大丈夫だ」
ほっとして私はお勝手に引き下がった。
食事の席は大変だった。
味がおかしかったら、離縁すると言われるのではないかと、私はヒヤヒヤしていた。
風呂上がりの濡れた髪の旦那様は、初めて見るような色気に溢れていて、私は胸がドギマギしてしまった。
「美味しい」
「そうでございましょう?玲央ぼっちゃまの花嫁様が全て作られたのでございますよ」
「そうなんですか?」
「はい……お口に合って嬉しいです」
私はただそれだけのことで、天にも登る気持ちだった。雅親さんのことは頭から消えた。寝ても覚めてもあの残像に苦しめられていたのが嘘のように、見合いの日以来、全く見なくなった。
夕食の後片付けを一緒にしてくれたフミさんが、帰って行かれた。私はお風呂をいただき、その後、蓄音機で音楽を流した。
旦那様は文机に向かっておられたので、お茶をお持ちした。私も自分の部屋で嫁入り道具として持ってきた文机に向かって、初めての雑費記入帳に悪戦苦闘していた。
白菜、大根、ほうれん草という冬が旬の野菜は安いが、米の高騰がこれほどとは、思わなかった。九重家では、雑費記入帳の管理まではしていなかったので、初めてのことで頭を悩ました。
その瞬間だ。電撃のように何かの映像が走った。
『一柳侯爵と親しくしておけ』
帝は旦那様にそう言ったのだ。
『欧州情勢が怪しい』
イギリスの王立士官学校帰りの朝霧玲央様に帝が望んでいることが私は分かった。
ならば、夜会だ。帝都の貴公子に振られたと影口を叩かれるようになってから遠ざかっていた夜会に思い切って復帰しよう。
私なら、夜会で旦那様と一柳侯爵をつなぐことができる。
ーー私が旦那様との婚姻で望まれているのは、そういうことだわ。
私は、求められている役目がはっきりと分かった。
私は旦那様の部屋の前で正座して、お声をかけた。
「あの、旦那様」
「はい」
旦那様のお声がした。
「襖を開けますね」
襖をゆっくりと開けると、玲央様はまだ濡れた髪のままだった。流し目にも見える仕草で私をゆっくりと振り返った旦那様に、私は息が止まりそうだった。
このお方とこれから初夜を?
そう思うと、挙動不審になった。
「あの、今度夜会に行きませんか?一柳侯爵様や、他のお方もたくさんいらっしゃいます。私も結婚したので、皆様に正式にご挨拶をしたいのです」
「……夜会?」
「はい、さようでございます」
旦那様は腕組みをしてしばらく考えたが、「わかった」とだけ言った。
それから、衝撃的なことをおっしゃった。
「あなたは、私に無理して嫁いだのでしょうから……その……今夜は別々の部屋で寝ましょう」
私は固まった。
やはり、私のことがお嫌いなのでしょうか。
それとも、帝都の貴公子のお下がりなどと、思われているのでしょうか。
私は一瞬、涙が溢れそうになったが、ハッと頭を下げて、「わかりました」とだけお伝えして引き下がった。
私の部屋には鏡台があって、文机があって、お布団は押し入れにしまったままだ。
夫婦の部屋になると教えられた部屋に、二組のお布団を敷いていた。
私は泣きながら、夫婦の部屋に敷いたお布団のうち、私の布団だけを畳んで、自分の部屋に運んできた。
夜、またお布団の中で涙が溢れた。
だが、朝も早い。妻になったのだから、私は気持ちを切り替えるのだと言い聞かせて眠った。




