捨てられた許嫁は、軍神の花嫁になりました
帝都の貴公子の元許嫁。
その枕詞がついて回るのは、この広い世で私だけだ。
血のようにまとわりつくその言葉。
昨夜も一睡も眠れなかった。
九重の香りの力は、それほど強くないとされていた。だが、あまりの心労から、私は雅親さんの香りが私の鼻腔を刺激しただけで、とんでもない映像が見えるようになった。
私は、きっと病んでいるのだ。
雅親さんが花房の令嬢にのしかかり、花房の令嬢が頬を上気させて甘い声をあげて乱れる姿が見えるようになってしまった。雅親さんの厚い胸板も、令嬢が胸を揺らす様まで。
だから、昨晩も全く眠れなかった。
裏切られたとは言わないが、裏切られたのだ。
あっけなく捨てられた華族令嬢として、私は世から後ろ指を指される身。
我が九重家がこんな私を不憫に思ってくれることはない。
高慢ちきで気位の高すぎる娘で、家事の一つもできない娘だから、帝都の貴公子に捨てられたのだと、父も母も叔父も叔母も私を冷たく蔑み、私は女中たちと家事手伝いをさせられるようになった。
拷問だったのは、あの私よりも可愛らしい花房りんに惚れた元許嫁の結婚式に参加したことだ。
黒紋付羽織袴を着た帝都の貴公子の隣に座るのは、白無垢を着た私であったはずなのに。
来る日も来る日も、家事手伝いをさせられた。
たまには、女学校時代の友人たちと映画館に行かせてもらえたりしたが、夜会への参加は帝都の貴公子の結婚以来、拷問のようになった。
皆が私を嘲笑うのが分かるのだ。
夜になれば、雅親さんと花房の令嬢の情事の映像が私を苦しめる。
だから、限界だった。
もう、誰でも良かった。
綾小路家の理人さんまで、花房のもう一人の令嬢の鈴乃さんと仲が良いという噂を女中たちがこっそりしているのを聞いて、私は絶望した。
誰一人、こんな公然と捨てられた気位ばかりが高い娘に興味はないだろう。
嘲笑うことはするかもしれないが、こんな私を花嫁に欲しいという奇特な方はいない。
あかぎれになり、痛みのある手を私はそっと胸に当てた。
私の体は、綺麗なままだ。
嫁入り前に全てを捧げた、花房の令嬢の方がいいのか。純潔を守るという考えは、帝都の貴公子には古かったのだ。
いや、ダメだ。
雅親さんは、心底彼女に惚れていた。
私には惚れていなかった。
ただ、それだけのことだ。
体は関係ない。
でも、あの不埒な映像はおそらく事実だ。
頭の中で堂々巡りをしながら、冷たい水で雑巾を絞って、屋敷中を拭いた。
そんな私が、父と母に改まって居間に呼ばれたのは、年の暮れだった。
「鹿乃子、お見合いをしなさい」
父と母は厳しい顔で命令するように私に言った。
「お見合い……ですか?」
私を花嫁にしようという方は、よほどの年寄りではないだろうか。「後家さんになれ」とでも言われるのかと思った私は、何を言われても動揺しないように、唇を噛み締めた。
「相手は海軍士官さんよ。帝の覚えもめでたいらしいから、身分は低くても良いでしょう。あなた、気に入られなければ絶対ダメですよ」
母は厳しい声で私に言った。
名前は、その時はまだ教えてもらえなかった。よほど身分が低いのか、父も母も険しい顔をしていた。
このまま家に置いておくと、世間の目もあり、九重家の名誉に関わると考えていたのなろう。
私を忌み嫌う叔父が話を持ってきたそうだった。
「年が明けたら、お見合いだから。それまで家事全般を習得さなさい。あなたは気位ばかり高くて、帝都の貴公子に捨てられた華族令嬢と噂されているぐらいなのだから、心して準備なさい」
母は小言のように私に言いつけ、父もうなずいた。
私にとっては、これが最後の機会なのかもしれない。
新年になると、私の恋心を綺麗さっぱり断ち切るために、花房の令嬢の顔を見に行った。
全身全霊で愛されているのが、むせるような香りで私には分かった。夜になると、雅親さんが離してくれないのだろう。
私は傷を抉るような気持ちで、帝都の貴公子の花嫁になった彼女を目に焼き付けた。
もう、大丈夫だ。
きっと、私は落ちるところまで落ちている。
ここからは落ちない。
私はそう自分に言い聞かせて、お見合いに向けて覚悟を決めた。
御香宮公爵夫妻が、この見合いの仲人をつとめてくださることになった。
御香宮公親さまと、千鶴子夫人の仲人のため、父も母も、私の見合いの衣装には気合を入れて準備をしてくれた。
場所は、華族の見合いでよく使われる赤坂の花霞桜で行われた。
庭園の池で鯉が泳いでいる様が見えた。
個室から雪見障子越しに庭が見えるのだ。
断られるかもしれないと思っている私が顔を伏せてじっと待っている間、御香宮公爵夫妻も少し緊張した面持ちだった。
その時、海軍の制服姿の朝霧玲央様がスッと座敷に姿を現して、挨拶をした。
帝都で評判の美青年だと女中たちが話しているのを私は聞いた。だが、顔を上げられなかった。
また断られてしまったら、と思ったら、顔を上げられなかった。
「こちらは、長州の武士の家の出の、朝霧玲央君だ」
私はそう言われて、頭を下げた。
「こちらは、九重鹿乃子さんですよ」
「まあ、そんなに顔を伏せていたら……」
千鶴子夫人がそう言うのが聞こえたが、私は震えてしまっていた。
下級武士の朝霧家の三男坊。
それだけ直前に聞かされたのだ。
これは、身分差の激しい婚姻だ。
「朝霧玲央君の才能や将来性を見込んでの仲介だ」
御香宮公親さまの声で、私はようやく顔を少し上げた。冷たい瞳と目があった。
帝都の貴公子とはまた違った美青年だった。
ただ、私を見つめる眼差しからは、何の感情も読めなかった。
この男性が、のちに「軍神」と恐れられるほど大出世を遂げることを、私はまだ知らない。
私たちは見合いの場では一言も話さなかった。
私は、彼の冷たい瞳に恐れをなして。
彼の方は、帝都の貴公子に愛想を尽かされて振られた私をどう思っているのか。
よくは思っていない感情はありありと分かった。
だが、その夜のうちに、結婚は決まった。




