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先輩の花嫁になる日

髪結の方が、まだ暗いうちから見えた。夜が白々と開ける頃には、花房の屋敷は朝から静かな興奮に包まれていた。


障子の向こうから、冬の朝の冷たい空気が忍び込んできた。


私は深呼吸をする。胸の鼓動が鳴り止まない。


女中さんたちは慌ただしく準備に終われ、特別な祝い御膳の支度も順調に調理場で進んでいた。今日のために、女中さんたちは張り切っているようだ。私は大きな鏡台の前に座らせられ、髪をすかれると、また、ふうっと深呼吸をした。


――嘘みたい……実感が沸かないけれど、今日は結婚式。


髪を結い上げられ、白粉を塗られて、眉を描かれた。着付けが静かに進んでいく中で、鏡に映る自分がまるで自分ではないかのように美しく変わっていく様を見つめていた。最後に紅をさしてもらうと、鏡の向こうには、一人の花嫁がいた。


――いよいよ……先輩の花嫁になる。


そう思った瞬間、胸がいっぱいになった。

忘れられたのだと思った。それでも私は、先輩が好きだった。


まさか本当に、この日が来るなんて。


幸せすぎて、少し、信じられないと思う自分がいた。


「なんとお綺麗な花嫁様でしょう」

「本当に……亡くなった奥様にお見せしたかった」


皆が口々に褒めてそやしてくれるので、私は恥ずかしかった。


心の準備はまだできていなかったけれど、先輩をお守りするのだという気持ちだけは強かった。


幼い頃、母の婚礼衣装が収められた衣装箪笥をこっそり開けたことがあった。


大きくて、それはそれは美しくて。


いつか誰かの花嫁さんになるのだろうかと漠然と思った記憶がある。それは遠い未知の憧れの世界の話であって、まさか、その花嫁衣装を自分が着る日が来るなんて、想像もできなかった。



母の白無垢。

白一色に見える打掛も、光が当たると、白糸と銀糸で縫われた桔梗の花が浮かび上がる。


文金高島田に結われた髪に、そっと綿帽子が被せられた。


沙千代が月岡の家元や沙千代の母と共にやってきたのは、その時だった。


「りんちゃん、綺麗っ!」

「さっちゃん」

「本当におめでとう」

「ありがとう」


私は沙千代が自分のことのように喜んでくれていることに、とても嬉しく感じた。九重家を始めとして、帝都の華族が次々と駆けつけてくださった。


華族の結婚がいよいよ始まるという興奮に屋敷中が包まれていた。


鹿乃子様が、控え室の障子をそっと開けた。


「綺麗よ、りんさん。雅親さんによく似合うわ」

それだけおっしゃって、すぐに戻って行かれた。


鈴乃は、支度の合間に顔をのぞかせた。目が赤かった。


「お姉ちゃん、あとは私に任せて」


今日は新聞社も花房の入り口に待機していると聞いていた。帝都の貴公子の婚姻は記事になるから、ぜひ独占取材をさせてほしいと、三田さんからもお願いがあったと聞く。



花房の家元と、月岡の家元は、畳に正座をして互いに祝いと御礼の言葉を交わしていた。


「おめでとうございます」

「おめでとうございます」


皆の挨拶を済ませた父は、私のところに静かにやってきて、私の姿を見るなり、何も言わずに黙っていた。


「お父様……今までありがとうございました」


家元である父はしばらく何も言わなかった。


「綺麗だ、りん。必ず幸せになるんだ」


それだけ静かな声で言うと、目元をさっと指で拭いながら、来賓のお客様のご挨拶に戻って行った。


「花嫁様、そろそろお時間ですよ」


声をかけられ、私はギュッと胸が痛くなった。


いよいよだ。


支えながら、私はそっと立ち上がった。しずしずと歩き始める。廊下の向こうから、障子の向こうから、ざわめきが聞こえる。


ドキドキと音が鳴るような胸の鼓動は、どんどん早くなった。


ざわめきが大きくなった。


先輩が――雅親さんがいらしたのだ。


胸が大きく跳ねた。


――せ……せんぱい……。


思わず、切ないような、嬉しいような感情に襲われて、肩が震えた。


まだ、泣いてはいけない。


それでも、好きだった先輩が、もうすぐ私の目の前に現れる。

紋付羽織袴を着て。


黒紋付羽織袴姿の先輩……。


私の旦那様は、華族のお方。


何度も諦めようとしたその人が、今は私を迎えに来てくれる。


そのことが嬉しくて。


何度手を伸ばしても届かないと思った未来が、今日はすぐ目の前にある。


私は先輩が姿を現す前から、溢れる涙を抑えきれなかった。





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