信じられていた
タエさんがいらっしゃる前に、私は朝ごはんの支度を始めた。ここ数日で秋も深まり、帝都の秋を堪能できるのも、まもなく終わりになるだろう。霜がおりても、私と先輩の生活は、この離れでしばらく続くのだ。
トントンと朝食のためのネギを刻みながら、私は幸せを噛み締めていた。新米が炊き上がる香りが広がり、焼き鮭の準備も終わり、きのこの味噌汁にネギを入れるだけで朝食の準備はおしまい。栗の甘露煮もある。卵焼きもふっくらと仕上がった。
――先輩の花嫁になれるなんて……。
――夢のよう……。
黒紋付羽織袴を着た先輩を想像してしまい、私は思わず動揺し、指を切りそうになってひやっとした。
――香席で初めてお会いした時から、美しいお方だと思っていたけれど……あんなに素晴らしい方が私の旦那様になるなんて……。
考えただけで、信じられない幸せに心が満ち、胸が浮き立つのを感じた。
「おはようございます」
「あっ、タエさん、おはようございます」
タエさんは、にこにこして離れのお勝手に入ってきた。
「ご結婚が決まったと、家元からお聞きしましたよ。母屋の皆さんはもう大騒ぎでございました。おめでとうございます!」
私は思わず照れてしまって、耳まで赤くなった。
「タエさん、ありがとうございます」
「まあ、後輩さんが菖蒲のお家に何度もいらっしゃるようになった時から、きっとそうなると思っておりましたが、本当にここまでよく頑張られましたよ」
私はタエさんにそう言われて、小さく笑って誤魔化そうと思ったが、涙が溢れた。
「あらら、ダメですよ、今日は大忙しですから」
タエさんは、私の両頬を包んで、にっこりと微笑んでくれた。
「りんさんのお母様の婚礼衣装を本日取り出して、白むくと綿帽子の状態を確認されるそうです。大切に終われてきた貴重な衣装だとのことで、鈴乃さんを始め、お手伝いさん達も大変張り切っていらっしゃるようでしたよ」
私は「はい」とうなずいて、涙をふいた。
「こちらは、今日の帝都新聞の朝刊でございます」
私は渡された新聞の一面に釘付けになった。
「帝都の貴公子、花房家のご令嬢と来週婚儀をとり行うことが、帝より正式に発表になった」
その大きな文字に、私は腰を抜かしそうになった。
「おめでとうございます、鷹条家もこれで安泰でございますね。お給金もしっかり入ったそうですし、帝付きの帝都特別顧問というご立派な役職に就かれて、もう……」
タエさんが前掛けで顔をおおって涙ぐみ、今度は私がタエさんを抱きしめる番だった。
「タエさん、おりん、朝からどうしたんですか?」
「まぁ、ぼっちゃま、今……りんさんを『おりん』と呼ばれましたか?」
途端に、先輩は頬を上気させて、唇を噛んだ。恥ずかしそうだった。
「思い出したんだ。記憶を失う瞬間以外は、全て思い出したと思う」
タエさんはその言葉に、胸を打たれたかのように両手を胸の前で組み、満面の笑みになった。万感の表情を浮かべている。
「おめでとうございます。記憶が戻ったことへのおめでとうございますと、ご結婚おめでとうございますの両方を申し上げます」
「ありがとう、ばあや。今まで支えてくれてきたことは、決して忘れない」
タエさんは、その言葉に大粒の涙をこぼして泣いた。
「まあ、ぼっちゃまったら……奥様にお見せしたかった」
先輩も少しうるっと来た表情で、「父に報告に行かねば」と言った。
私は新聞をそっと先輩に渡した。
「なっ、こんなに大袈裟な記事を書いたのは……三田さんの差金だな……」
先輩は「まいったな」と言いながら、居間に戻り、私たちは朝食のお膳を急いで準備した。
「りんちゃん、タエさん、今日からまたお願いします。鷹条の家は焼け跡が残っているだけだから、新しく建て直す必要がある。祝言をあげても、しばらくこの離れで暮らすことになる。引き続き、よろしくお願いします」
先輩がそう言って頭を下げた。
「そこは『おりん』じゃないのですか、ぼっちゃま」
タエさんに揶揄われて、先輩は小さく咳払いをして仰った。
「照れてしまうから」
令和ではフラれた私だが、大正帝都では、私は帝都の貴公子に愛された。このタエさんと先輩との生活は、何ものにも変え難い日々だ。雪の日にフラれて、滑って頭を打って死んだ私は、今度は幸せになれるのかもしれない。
朝食の時間は楽しく過ぎた。後片付けが済むと、先輩と私は菖蒲の家に行くとタエさんに伝えて、離れの玄関を出た。
急いで玄関に出てきたタエさんは、火打石で験担ぎをして、見送ってくれた。
金木犀の香りが濃厚に漂い、私は先輩に「おりん、手を繋ごう」と言われて、花房の敷地内を手を引かれて歩いた。
先輩の手は温かく、洋装の先輩は「祝言をあげる前に床屋に行かねばな」とつぶやいていた。
今日は金縁眼鏡はされていなかった。
先輩と手を繋いで歩けることに、私は胸のときめきを抑えられなかった。
――嬉しい……。
かつての私は、こんな未来を想像もできなかった。忘れられたと泣いていた私が今を見たら、どう思っただろう?
菖蒲の家へは、私がかつて通った道のりを2人で歩いた。細い路地裏の木の下で道行コートを脱いだことを思い出しながら、先輩と私は黙って歩いた。
秋の日差しは柔らかく、私たち2人を照らしていた。
私たちは新聞に載った、結婚が決まった2人だと気付かれたりしながらも、幸せな気持ちで歩いた。
かつて、鷹条の家だった「菖蒲の家」は、当時のままそのままに残っていた。時々、誰かが手入れをしているようだった。
私は門の前で、先輩の顔を見上げた。
先輩は、険しい顔で門を見ると、決心を固めたように敷地内に足を踏み入れた。
タエさんからもらった鍵で玄関を開けて、中に入った。
「ばあや、いるかい?」
先輩が、今にも言いそうな家の雰囲気だった。
ただ、中の家財は今も尚ほとんど無かった。
私はあの雨に濡れた菖蒲の花を見た日から、一度も来たことがなかった家に足を踏み入れた。
下駄を脱いで上がると、私と先輩が結ばれた部屋、火鉢の置かれた部屋、私が先輩に昼食を作ってあげたお勝手、お風呂をいただいた場所、全ての記憶が蘇ってきた。
先輩も懐かしそうにあちこち見て、かつて自分の部屋があった2階も見回った。
縁側の雨戸を開けて、光をいっぱいに入れた。そのまま、外の庭に出た。
秋なので、菖蒲の花は枯れていて、ススキに混ざって、青い可憐な花が沢山咲いていた。この花は、以前、女学生の私が先輩と帝都巡りをしていた頃の秋には咲いていなかったと思う。
「母だ」
先輩はつぶやいて、膝まずいて青い美しい花に手を触れた。
「永遠の愛、変わらぬ愛が花言葉の桔梗は、母がとても好きだった花だ」
「お母様が、あの後、わざわざ植えたのですね」
濡れた菖蒲の花を見た日、あの時までの秋には、この青い優雅な花は咲いていなかった。あの後、植えたとしたら……。
「母からの伝言ですね」
先輩は少し涙ぐんでいらした。
先輩は、ゆっくりと膝を地面についた。
そして、頭を抱えた。
「くっそ……思い出した……あの時、母もその場にいたんだ」
――なんてこと……。
「水鏡院は、まず父に近寄り、その後母に近寄ったようだ。母が人力車でここにやってきて、私に話があると言ったんだ。そこにいきなり水鏡院澄哉がやってきた」
先輩は、地面に膝をついたまま、天を仰いだ。金木犀の香りが漂う秋の庭で、先輩は何かを見つめていた。
「『お前が覚醒したのは男が原因か、女か』と聞いてきた。母が間に入ろうとしたが、庭のその岩のそばで、母と水鏡院が揉み合いになった」
私は涙が止まらなくなった。
――なぜそんなことを……。
「あいつは、私の記憶を見ようとしたんだ……」
先輩は顔を両手で覆った。
「だから……おりんの存在が知られてしまうと思った……奴が手を伸ばしてきた瞬間、私は自分の記憶を全力で消そうとした」
私は泣きながら先輩を抱きしめた。先輩は私の腕の中で、くぐもった声を出した。
「しばらくして、私は家が火事で焼けたことを知った。その間のことは何も覚えていない。母は火事で亡くなったと父から聞いた」
――なぜそんなことを……。
「ごめんなさいっごめんなさいっ私なんかのために……」
「おりんだからだよ……守れて良かった。俺の記憶を、おりんならまた戻してくれると信じたんだ」
私は泣きながら、先輩を抱きしめた。
先輩の唇がそっと私の唇に落ちてきた。
私たちは、しばらく抱き合っていた。
私は捨てられたのではなかった。
忘れられたのでもなかった。
守られていたのだ。
そして、揺るぎない信頼をいただいていたのだ。
命を削るほどの愛をもらって、それでも、私なら、元に戻してくれると信頼をいただいていた。
この2年半、私が泣いていた間も、私はずっと先輩に守られ続けていた。
私が諦めそうになった時も、私はずっとずっと先輩にこの2年半も間、守られて続けていたのだ。
私は、まるでわかっていなかった。
愛された。
とんでもない深さで。
どこまでも、どこまでも深く。
そして――信じられていた。
私なら必ず自分を取り戻してくれると、信じてくれていたのだ。
花嫁にしてもらう前に、ずっと私は幸せな恋人だったのだ。




