鷹条Side あの夜を思い出した
私は走るようにして、離れに急いだ。家元も帝のところに呼ばれていて、一緒に戻ってきたところだった。
結婚が決まった、そう知らせたかった。
水鏡院が月岡で九重鹿乃子さんの記憶を読もうとしたこと、りんちゃんが鹿乃子さんを守ったこと、帝を操るために、より家の力を覚醒させる目的で私のそばにいたりんちゃんの存在を探ろうとした事、それを拒んだ私が自分の記憶を消したと水鏡院が語ったこと、九重家から報告された話はいずれも驚愕の話だった。
帝が事前に指摘していたように、やはり、私は自分で自分の記憶を消したようだ。
敵から語られて、私は自分でも腑に落ちてはいたが、思い出せないことに歯がゆい思いだった。
離れの明かりがついているのを見て、私の心臓は跳ね上がった。
――りんちゃんが待っていてくれる……!
屋敷の中心にあるは離れなら、結界の中心になるので私を守れると考えたと、花房の家元は言っていた。
だが、2年半前に起きたことについては、私には多くを語らなかった。帝は別途報告を受けたようだが。
「りんから、直接聞いてください」
家元はそれだけを私に言った。私は家元に感謝していた。私を匿ってくれたこと、タエさんを連れてきてくれたこと、何より家元の実の娘のりんさんを離れの世話係にしてくれたこと。
全てを分かった上で、やってくれたことだった。
「りんちゃん!」
私が玄関に駆け寄ると、りんちゃんが、玄関に正座して私を待っていてくれた。
「お帰りなさい、先輩」
――そうだ、私はりんちゃんの『先輩』なのだ……。
私は嬉しさのあまりに、頬が緩んだ。
火鉢を出してくれたのか、部屋が暖かかった。
「先にお風呂になさいますか?」
「そうだな、そうするよ。話があるから、りんちゃんも一緒に夕食を食べよう」
私はそう答えて、ドキドキする胸を抑えて先に風呂に入った。
着替えをすませて居間に行くと、すでに食事の支度ができていた。
私はお膳を前に座った。深呼吸をする。
「りんちゃん」
「はい」
私はまっすぐにりんちゃんの顔を見つめた。
――なんて可愛いんだ……。
「私たちの結婚が決まった。役職も決まったし、申し訳ないが、挙式は急ぐ。来週、結婚式を挙げることになった」
私はここまで一気に話した。
りんちゃんは目を丸くして、私を見つめた。
「先輩、いえ……雅親さん、承知いたしました」
それだけ言うと、りんちゃんは泣き出した。
私はそっとそばに擦り寄り、抱きしめた。
「今まで、我慢させて申し訳なかった。愛しているんだ。りんちゃんを誰にも渡せないんだ。すぐにでも結婚したいと家元に頼み込んだ」
「はい……喜んで、先輩の妻になります」
その時だ。
――妻……花嫁……私の花嫁……?
私の中で、何かが弾けた。
「そうだ!眼鏡だ……」
私は自分の部屋に走るようにして行った。金縁眼鏡を手にして戻ってきた。泣いているりんちゃんの顔にその眼鏡をかけようとすると、りんちゃんが思わず目をつぶった。
私はその唇に口付けをした。
「せ……せんぱい……?」
思い出した。桜並木。縁日。かき氷屋。
いつも、詰襟姿のりんちゃんが横にいた。
――薄紅の着物を着て、りんちゃんが詰襟を包んだ風呂敷を返すと私に渡した日。私は、未来の花嫁に逃げられると思って、キスをした……。
「おりん、初めてキスをした日を思い出した……」
りんちゃんは、目を見開いた。一瞬、唇を噛み締めて、泣き笑いをした。
「初めておりんって呼んでくれた日です」
私は頭を抱えた。恥ずかしかった。
――なんで、あんな大事な日を忘れていたんだろう。
初めてキスをした日を思い出したが、でも——まだ何かが霧の中にある気がした。
「りんちゃん、今日、泊まって行ってくれますか」
え?と戸惑った表情をりんちゃんがした。
「明日、菖蒲の家に一緒に行きたいんだ」
「……はい」
りんちゃんは、頷いた。真剣な表情だった。
「先輩、おりんと、時々はこれからも呼んでいただけますか?」
私は途端に照れた。
私は最初から、りんちゃんを花嫁にしようと思っていたんだと分かった。
りんちゃんと話している間に—— ふと母の声が蘇った。
母が何かを言っている姿が頭に浮かぶ。
「待って……」
九重家との結婚を破談にすると母に言ったら、相手は誰なんだと母が私に詰め寄った。
「そのお嬢さんをあなたは守り切れるの?」
母がすごい剣幕で私に言ってきた。私はその頃、なぜか、人の思惑が香りで分かるようになっていた。母は私を心配していた。
「雅親さん、そのお嬢さんの力で覚醒したのよ」
確かに母がそう言ったのだ。父はいなかった。母と私だけの会話だった。
帝都の軍の話を母がしていた時だ。
私は頭を抱えた。
何か大事なことを私は忘れている。
――もっと大事なことを、私だけが忘れている……。
「先輩、冷めないうちに食べましょう」
「そうだな……りんちゃん、食べよう」
私たちは遅い夕食を食べ始めた。
私が照れてしまって、なかなか『おりん』と呼べなかった。
「土砂降りの夜、りんちゃんは菖蒲の家に泊まった?」
私は突然、浮かんだ情景に、箸を落としかけた。
私は口を手で抑えて、咳き込んだ。
とんでもない光景が頭に浮かんだ。
――濃密な白檀の香りと……『愛している』と囁く自分の記憶……!
私は慌てて立ち上がり、隣の部屋に駆け込んだ。
畳に手をついて、今、頭の中に湧き出た記憶に翻弄されるように、目をつぶった。
――待って……。
――私は何を忘れている?
雨。
白檀の香り。
泣いているおりん。
濡れた髪。
九重家との結婚が新聞に載って、別れを告げにきたおりん。
「もう、いや」
「待て、おりん」
「もう、先輩のおそばにはいれません。これ以上は、先輩のお立場を……」
あの日のやりとりとその後のことが頭に蘇った。
そして――「愛している」という、自分の声が聞こえた。
私は立ち上がれなくなった。
乱れる衣。白い肌。露わになって甘く悶えるりん。私は脱ぎ捨てた……?……?
なんだ、この不埒で生々しい映像は……。
うわっ!?
私は……やってしまって……いる。
「花嫁になって……結婚しよう……」
この言葉をどの瞬間に自分が言ったのか……。
私は生々しい衝撃を全身に感じて、悶えた。
とんでもない状況にりんちゃんを追い込んだ。
***
私は雨音の中で、大事な人と一線を越えた。
覚悟の上で。
そのことを思い出した時、私の呼吸が止まった。
なんてことだ!
それを、私は今まで忘れていた……のか?
不誠実極まりない男とは、私のことだ。
愛していると言った。
結婚すると誓った。
それなのに私は、その夜そのものを忘れていた。
これはあってはならない。
男としては、最悪な部類に当たる。
あのことを忘れるなんて、愛した人を、とても傷つけることだ。
私は顔を覆った。
りんちゃんは、どんな気持ちで私を見ていたのだろう。
忘れられたと思ったはずだ。
捨てられたと思ったかもしれない。
りんちゃんの気持ちを考えて、私は絶望したくなった。
愛していたんだ、りんちゃん。守ろうと思ったんだ。
言い訳しても、無理な気がした。
️***
母に結婚したい人がいる、心に決めた人がいると話した。父にもだ。
だが、母と私だけの会話があった。
「あなたの能力を覚醒させたそのお嬢さんは、狙われることを理解しているの?」
私は答えられなかった。
「愛しているんだ」
そう母に答えた。
そうだ。
私は愛していた。
おりんを。
誰にも渡したくなかった。
九重家にも存在を知られたくなかった。
水鏡院にも。
誰にも。
愛していたから。
母の警告は正しかった。
それでも、私は、おりんを愛していて、今も愛していた。




