おりんSide 雅親さんを任せられるのは、あなたしかいないわ
霜が降りた朝だった。
昨日、タエさんが水鏡院に連れ去られた。
水鏡院澄哉が月岡の華道に出入りしていると、沙千代から聞いていた。
今日こそ、決着をつける。
私は朝から月岡に来て、待機していた。
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月岡の屋敷を私は走っていた。
令和から転生した私にとって、ここは異世界だ。私が知っている大正ではない。記憶を読める能力は超能力だ。そんなものが遺伝するはずがない、と思ったが、この世界で育った私にはよく分かっていた。この世には、本当に恐ろしい力が存在するのだ。
中庭の向こう側の部屋で、鹿乃子さまが叫んでいる声がした。
「お控えなさいっ!水鏡院ごときが、九重の頭の中を読むなど許しませんっ!」
その声が聞こえた私と沙千代は、ハッとして顔を見合わせた。
今日は鹿乃子様と水鏡院澄哉様が華道にいらっしゃる日ということで、私は月岡に朝から来て待機していた。
私は弾かれたように走り出した。場所は分かる。この月岡の屋敷は子供の頃から何度も何度も遊びに来ていた屋敷だ。
私は足袋のまま、庭に降りて、そのまま庭を突っ切って走った。縁側に上がる時に、足袋を脱いだ。脱ぐ時間も惜しいぐらいだった。
怖かった。
水鏡院澄哉という方が、どれほど恐ろしい力を持っているか——父の怪我を見た時から、分かっていた。
それでも。
――先輩がご自身の記憶を捨ててまで守ってくださったなら……。
今度は私が立ちはだかる番だと思った。
足が震えているようにガクガクしていて、自分の足でないように感じた。それでも、走るのを止めなかった。
途中で、また悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!やめてー!!!!!」
嫌がる鹿乃子様の悲鳴が聞こえた。私は障子を開けて飛び込んだ。
すぐに舞を舞って、結界を張った。
「りんさん!」
「鹿乃子様に触れるのをおやめくださいっ!」
美貌の男性が鹿乃子様に触れようとしていたが、私の張った結界によって突き飛ばされた。男性の額にはらりと落ちた髪の隙間から、凛々しい瞳がきらりと光っていた。
「ほお?噂の花房の娘か」
美しい顔の薄い唇がぐいっと上がり、私の姿を抜け目なく見据えた。
――怖い……。
「やはり、お前だな?鷹条の力を覚醒させた相手はお前に違いないっ!」
私に向かって男が立ち向かってきた。
――だめ……近づけさせてはだめ……!
だが、私の結界は男を締め上げたようだ。
「ぐっ!おぉっ!なっ!」
奇妙な声をあげて、男はのたうちまわった。
「鹿乃子様……今のうちに逃げてください」
「でも……」
「ここは私がなんとかしますから」
私は鹿乃子様の乱れた衣装を見て、「衣を直してください」と素早く小声で伝えた。
鹿乃子様はハッとした様子で、乱れた袂を整えた。
「あなたを一人にできないわよ」
鹿乃子様はそう言って、私の背後からどこうとしなかった。
「花房殿……私の子を産め」
――なんてことを……!
私が反応する前に、私の後ろにいた鹿乃子様が水鏡院に素早く近づいた。彼の頬を鹿乃子様は引っ叩いた。
「無礼者っ!」
「私は九重にはもう用はない」
「りんさんの体は、りんさんのものなのよっ!」
二度目の強烈な平手打ちが、澄哉様の頬に決まった。
私の頬を叩いた時とは、大違いだった。
私は、今、本気の九重家の力を見せられていた。
私の結界は澄哉様の体をキリキリと締め上げているようだった。怖かったが、私は舞うことをやめなかった。
鹿乃子様が震える声で言った。
「水鏡院、お前の企みはわかっているわ……帝を操り、自らの欲のままに動かすことでしょう?バレているわ……」
骨が折れるような音がした。
私は舞うのをやめた。水鏡院澄哉は苦しそうに荒い息を吐いていた。
私はどうしても言わなければならないことがあった。荒い息を整えながら、私は言った。
「2年半前、水鏡院家が鷹条様にしたことは許せるものではございません!」
――あなたたちでしょう……?
――先輩に何かしたのは……あなたたちでしょう……?
「何を言っている……あいつは……自分で自分の記憶を消した!私が記憶を読む前に、あいつが自分でやったことだ!」
私は息を止めた。
「お前を恨んでいる令嬢がいてな。そこの九重鹿乃子は、許嫁が誰にうつつを抜かしているのか、知らなかった。だが、我が水鏡院にお前を渡そうと持ちかけた令嬢がいた。名前の分からぬ相手から手紙が届いたんだ。鷹条の記憶を読めば分かるだろうと書いてあった。だから、私は鷹条の記憶を読もうとしただけだ。水鏡院に、鷹条を傷つける意図は最初はなかったんだ。あいつがお前の記憶を私から守るために自分で消した。我が水鏡院は何もしていない」
私は膝が震えて、崩れ落ちた。
「あいつの母親は、それを悲観して錯乱したんだよ!我が水鏡院は結局、鷹条には何もしていない!やろうとしたが、あいつらが勝手に自分でやったんだよ」
私はその言葉に涙が溢れて、嗚咽が漏れた。
「自分で……?」
声が震えた。
「自分で……先輩は……」
膝から力が抜けた。
私の推測が当たってしまった、そう思ったら、もうダメだった。
鹿乃子様が小さな声で呟くのが聞こえた。
「お前の家の力など、滅びるがいい。絶対に許さないから」
泣き崩れる私は、鹿乃子様にそっと肩を抱かれて、部屋を出た。
「りんさん、私たち、知ってしまったわね」
泣きじゃくる私は、鹿乃子様も泣いていることを知った。
鹿乃子様は、しばらく黙って泣いていた。
「ねぇ、りんさん」
鹿乃子様の涙でくぐもった声で呼びかけられて、私は顔を上げた。
鹿乃子様は唇を噛み締めていた。
美しい目に涙が光っていた。
「……悔しいわ。私、本当に悔しいの」
低い声で、鹿乃子様はそう言った。
「雅親さんが、あなたを選んだのは……分かったのよ。そこまでしてあなたを守りたかったのね。でも、悔しいわ。本当に悔しい」
鹿乃子様は毅然として様子で顔を上げた。
涙をこらえながら——。
それでも、九重家の娘としての気品を失わずに。
「雅親さんを任せられるのは——あなたしかいないわ」
そう言いながら、鹿乃子様は大粒の涙をこぼされていた。
その日のうちに、九重家から、ことのあらましが帝に報告された。
2年半前、帝を操るために、水鏡院家が鷹条家に何をしようとしたのか。皆が事実を知った。
九重家からは、鷹条家と花房家の婚姻に賛同するとも伝えられたそうだ。
水鏡院の追放が決まったと、後から聞いた。華族の全てが賛同の意を帝に伝えたと聞いた。
鹿乃子様は、私を抱きしめて謝った。
「あなたにひどい事を言って申し訳なかった」
悔しいけれど、それでも前に進むしかないと、鹿乃子様はおっしゃった。
その夜、私は帝に呼ばれて行った先輩を、離れでずっと待っていた。
タエさんは花房の屋敷の母屋の一室が用意されて、そちらに帰って行った。
その後、私は灯りをつけて、先輩の帰りをずっと待っていた。




