おりんSide こんなにも愛されていたのを、初めて知った
水鏡院澄哉さんという方は、今までお会いした事がなかった。
顔も知らぬ相手に嫁ぐのは、珍しいことではない。
けれど――。
私は両手を握り締めた。
胸の奥が苦しくなる。震える。
雅親さん以外の方に嫁ぐのは、本当にいやだった。怖かった。
――もし、本当にそうなってしまったら。
――でも、もしも、また私のせいで雅親さんが傷ついたら。
――先輩……雅親さん……。
震える指で拳を握る。
先輩が能力を覚醒したのは、あの土砂降りの夜からだ。
――間違いないと思う。だって……あの香り……白檀の香りが強くなったから。
――私との関係が濃くなって、私の結界は先輩の周りにも影響を及ぼしたとしたら。
2年半前、水鏡院は雅親さんに触れられなかった。
――なぜ?
その瞬間、私は恐ろしい考えにたどり着いた。
――先輩は。
――もしかして。
――私を守るために……ご自身で記憶を……?
全身から血の気が引いた。
――まさかっ!
胸の奥に何かがつかえて、息が苦しい。
そんなこと、あってはならない。
――私なんかのために……。
――そんなこと……。
――そんなことをしてはいけないのに……。
――私を守るために。
――先輩がご自身を犠牲にされたのだとしたら……。
ぽろり、と涙が落ちた。
――だとすれば……。
――怖い。
――怖い。
――また同じことが起きるのが怖い。
私は唇を噛み締めた。震える両腕を自分で抑えようと抱きしめた。
――泣いている場合ではない。
――もう、本当にそうなら。
――今度は私が守らなければならない。
――雅親さんを。先輩を。
――私の大切な人を。
「私が雅親さんを必ずお守りします。お父様、ここからは、本気で花房の力を、外でも全開にさせていただく事をお許しください」
私は家元の顔をしっかり見つめて、懇願した。
「分かった。私は止めない。相手は、華族で立場もある。帝にことわりをこちらから進上させていただこう」
「はい。鷹条雅親様と花房りんは、2年半前に契りを結びました。そうご報告をお願いします」
家元は目を見開いた。
「やはり、そうであったか……!」
「自分の行いが、どう周囲に影響を与えるか、これで学んだろう」
家元の言葉は、花房の家に生まれ、花房の血を継ぐ者への戒めだ。私の亡き母は、他家から嫁ぎ、花房の結界から締め出された。何があったかは詳しくは知らない。だが、私も亡き母も、花房の舞を継ぐ者の務めは理解していた。亡き母は、最後の言葉で「りんちゃん、家元の厳しい教えはいつか、理解できるから」だった。
「はい。ただ、後悔はございません。今度は全力でお守りいたします」
私は家元の部屋を出て、庭に降り立った。枯れた菖蒲の花を見た。
――真実は、きっとあの菖蒲の家に眠っている……。
私は険しい表情を、眉間の皺を指で伸ばすようにして、ほぐした。
――私を全力で守るために、先輩がご自身の記憶を捨てたのなら、私は二度と同じ事を先輩にさせてはならない。
帝都の空は赤く夕焼けで染まっていた。はらはらと舞い降りる紅葉の葉は、辺りを美しい色に染め上げていた。
その中を走るようにして、離れに向かった。
そこで、青ざめた表情で、月岡から駆けつけてきた沙千代と出会ったのだ。
「りんちゃん、大変!」
「さっちゃん、どうしたの?」
「タエさんが、狙われているって!今、ほら、前に話した駆け落ちしたいって話していた私の恋人…帝都新聞の創業者一族の嫡男なんだけれど……私の所に相談に来たの」
沙千代は、自動車から降りて、門から走って来たらしく、荒い息をぜいぜいとさせながら、胸を抑えた。
「落ちついて、さっちゃん。誰がタエさんを狙っているの?」
「水鏡院」
――えっ!?
「りんちゃん、2年半前に雅親さんと一線を越えたこと、タエさんはご存知なの?」
「知らないはず……タエさんは、私が花房の娘だという事も知らず、ただの後輩だと思っていたわ」
「だから、2年半前は、タエさんは無事だったのよ。でも、今は、りんちゃんが2年半前も、今も鷹条様のお近くにいる記憶を宿す唯一の人が、タエさんなのよ!」
私は離れに向かって、必死に走った。
――タエさんの身が危ないっ!私のせいだ!
離れの前の金木犀の木は、芳しい香りを放っていたが、私にはもう、何も感じられなかった。
「タエさんっ!!」
お勝手にも、2階の部屋にも、1階の部屋にも、庭にも、どこにもタエさんはいなかった。
「いないわっ!」
「りんちゃん、家元にお知らせしましょう。公彦さんは鷹条様にお知らせに言ったわ。あ、私の恋人の三田公彦さんのことだけど……きっと、タエさんを連れ戻すわ。ここで待ちましょう」
沙千代は私に落ちつくように背中をさすってくれた。
「りんちゃん、公彦さんは、帝都新聞社が保管していた3年前の雅親さんの写真を持ってらしたのよ。そこには、詰襟を着たりんちゃんが一緒に写っていたの。水鏡院に知られる前に、鷹条様に知らせるべきじゃないかと相談にいらしたの」
――あぁ、先輩の記憶が戻る前に、私の事が先輩に伝えられてしまうのだ。
私はふらふらとしゃがみ込んだ。
――大丈夫だろうか?
――先輩は、私が騙したと思わないだろうか?
私は恐ろしく思ったが、タエさんの身の安全に集中すべきだと自分に言い聞かせた。
「家元も襲われて、怪我をされたの。大した事はなかった。でも、水鏡院家から婚姻の申込みが来たの」
沙千代は私を驚いて見つめた。
「……りんちゃん!それは本当なの?鷹条家が先に申込みはしていないの?」
私は力無く首を振った。
「私、このまま守られているだけでは駄目なのだと思う。花房の力を使うわ。水鏡院澄哉さんは、月岡の屋敷に華道を習いにいらしていない?」
沙千代は、ハッとした顔で私を見た。
「最近、彼は鹿乃子様にまとわりついていたわ。月岡に来ているわよ」
「雅親さんには内緒にしてくださる?」
私は唇を噛んだ。
「私が行かなければならないの。これ以上、雅親さんを巻き込みたくないの」
私は深呼吸をした。怖いけれど、私がやらなければ、と思った。
「だから……私が水鏡院澄哉さんと話すわ」
沙千代は、私をギュッと抱きしめた。
「家元に報告に行くわ。タエさんの身の安全を何とかしなければならない」
私は離れの玄関に沙千代を残して、また母屋に向かって走った。
***
母屋から戻ると、タエさんが無事に離れに戻っていた。沙千代がテキパキと働いていた。
「タエさん!」
「りんさん!」
私はタエさんに駆け寄り、無事でいらしたと心から安堵した。
詳しい話を聞く前に、先輩がお勝手に姿を現した。
「りんちゃん、ちょっと話したいんだけど」
そう言った先輩の顔は青ざめていて、私はついに、先輩にバレてしまったと思った。
先輩は記憶を取り戻されてはいない。
ただ、周囲の証拠から、私が以前も先輩のおそばにいた事を知り、驚いて混乱されているのだろう。
「この詰襟は私がりんちゃんに渡しましたね?」
先輩の亡くなられたお母さまが、お守りにと紫陽花の刺繍をされていた詰襟だ。お洗濯物の度にそれを目にしており、いつかタエさんにお聞きした事があった。
先輩がお召しになる殆どの衣類にその薄紫の刺繍が施されていた。もちろん、鷹条家は没落されていたので、新しい衣類は殆どなく、繕い物をする度に、私はその紫陽花の刺繍を目にしていた。
「この刺繍は、鷹条家の香りの力を宿していて、他の誰も真似出来ないのですよ。りんさんのいただいた夏の詰襟にも、冬の詰襟にもございますでしょう?お守りのおかげで、りんさんは、詰襟姿の時でも、特段危ない目に合わなかったでしょう?」
タエさんが、何気なく、いつか教えてくれた。
「はい」
先輩は、自分が詰襟を私に渡した人物だと悟ると、床に崩れ落ちるように座られた。私も膝をついて、先輩の前に座った。
何かを思い出されたのだろうか。
先輩は、一瞬、目を見開いて、私を見つめた。
「りんちゃんの先輩って、私のこと?」
「はい」
「……忘れていて、ごめん」
先輩は肩を震わせて泣いていた。私の目から大粒の涙が後から後から溢れ出た。
「今まで辛い思いをさせてごめん」
私は首を振り、泣きながら先輩を見上げた。
先輩は私を抱きしめた。
「……先輩」
私は温かい塊が胸の奥で広がって、私のわだかまりを溶かすのを感じた。
先輩は、私のために記憶を捨てられた、そういう気がしていた。
私は抱かれたのに、忘れられたのだと思っていた。
心も何もかも差し出したのに、置いて行かれたのだと思っていた。
私だけが、先輩を好きだったのかもしれないと思っていた。
けれど――違ったのだろうか。
先輩に、守られていたのだとしたら……。
先輩が、私のためにご自身を犠牲にしたのだとしたら……?
私は何もかもわかっていなかったのかもしれない。
私は泣き崩れた。
こんなにも愛されていたのだと、初めて知った。
そのことは、先輩には言えなかった。ただの推測でしかないから。
「りんちゃん、忘れていて、すまなかった」
先輩は私に心から謝って泣いていた。タエさんも沙千代も涙ぐんでいた。
先輩の腕の中で——私は静かに誓った。
――今度は、私が、先輩を必ずお守りしますから……。




