あの日、香りに恋をした
先輩と初めて出会ったのは、香会の席だった。
「りんちゃん、急で悪いのだけれど、今日の香席、代わりに行ってもらえないかしら。帝大から講師の方がいらっしゃるそうなの。でも私、見合いの席を急に設けられて行けなくなったのよ。人数が必要だから」
友人の頼みで、私はいつもとは違う香席の門をくぐった。
舞の家元の娘である私は、華道や茶道のお稽古の他に、月に数度、香席へ通っていた。
その日、友人の代わりに出た香席で、私は偶然、先輩と出会った。
着くと、女学生たちがざわめいていた。西洋帰りの華族の青年がいらしているという。
ハイカラな女学生たちが、一気にざわめき、先輩が姿を現すと、息を呑んで静まり返った。帝都の女学生の間で、先輩はとても有名だった。
鷹条家の跡取りで、女学生たちの憧れのお方だったのだ。
「帝大に通われている、鷹条家の……?」
「そう!」
「素敵……」
初めて会った時、私は先輩の事を涼やかな瞳を持つ気難しそうな人、そう思った。
黒の詰襟を着て、長い指で香木を持ち、香りを聞く仕草はどこか大人びていて、私の胸の奥にそれまで感じたこともなかった胸の高鳴りを呼び起こした。
そもそも、私とは家の格が違った。
私の家は帝都でも名の知れた流派であり、私は跡取りだった。
一方で、彼は決して私などが触れてはならない方だった。
香炉を受け取る瞬間、先輩の指が私の指に触れた。温かな、その一点に、すべての神経が集まるようだった。
袖が触れるたびに、それだけで、私の胸はうるさくざわめいた。
先輩が香炉を静かに回す。香りと微かな吐息が近づいた。
閉ざされた香席での香と息づかいに、私はまるで酔ったかのようにくらくらした。
黒の詰襟の先輩は、どこか人を寄せ付けない横顔をしているのに、教え方はとても丁寧だった。先輩はお顔がとても綺麗な人だった。
憧れ……それが最初に心をいっぱいにした感情だ。
帝都の女学校に通う私と、帝大生の先輩。
ただのそれだけの関係性なら、私の体に広がる憧れは、私の心を浮き立たせる華やかな憧れのままだったはず。
女学校の他の女子生徒と同じく、先輩の存在に、初めてのときめきを覚えた。
――この世には、こんなに素敵な方がいらっしゃるのだ……。
ふわりと香りが広がった。私の指がぴくりと止まる。
「わかりますか」
すぐそばで低い声がした。
先輩は、私に、白檀の香りを教えてくれた。
「お名前は?」
鷹条と名乗った後に、先輩は私に名を聞いた。
「花房りんです」
「あぁ、舞のお師匠さんの所のお嬢さんでしたか。りんさん、今日は楽しかったですよ」
帰り際に先輩が私にささやいた。
帰り、袖に移った香りに、私は先輩の声の余韻を感じた。
あの日、雨が降らなければ。
私たちは、ただの憧れのままで終わっていたのかもしれない。
御香宮様のお屋敷で、私たちは月に三度顔を合わせるようになった。
御香宮家の香席は、帝都の若い華族や文化人が集うことで有名だった。




