私の恋が、先輩を追い詰めた
庭の紅葉がとても美しくなった。赤や黄色い葉がハラハラと落ちてきて、庭の道の掃除も毎朝時間がかかるようになった。
タエさんが銀杏を燻る香りが辺りに立ち込め、パチパチと乾いた音が楽しげに響いている。縁側に整然と吊るされた干し柿が秋の小風に僅かにそよいでいた。秋の虫が鳴いている。
月見団子とススキの飾り付けを私は終わらせた。今朝まで離れの庭先で香っていた金木犀の香りに変わって、銀杏の炙る香りが立ち込めている離れの居間の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
幸せなひとときだ。
「そろそろ、火鉢を出さないとですねぇ」
タエさんがつぶやいている声が聞こえた。今日は栗ご飯の予定だった。お勝手で栗を煮ていたことを思い出して、私はお勝手にいそいそと移り、新米をとぎ始めた。
先輩は、今日も帝の所に行ってらした。理人さんもご一緒だ。先輩の香りの力は回復しており、鷹条家の役職も決まったと聞いた。
「ばあやって、この前、ぼっちゃまが私のことをお呼びになったんですよ」
「雅親さんが?」
私は思わずタエさんの顔を見上げた。タエさんはニコニコしていた。
「はい。イギリスから戻ると、ぼっちゃまは『ばあや』と呼ぶようになったのですよ。幼い頃のぼっちゃまは私のことをそう呼んでらしたのです。学校に上がってからは、恥ずかしくなったようで、『タエさん』と他の人に合わせて呼ぶようになったのですが、イギリスから帰るとまた『ばあや』と呼ばれるようになりまして」
――そ……それって……。
「はい、あの菖蒲の家を思い出されたのですよ」
私の胸がドクンっと音を立てた。
「この前、ばあや、あの菖蒲の家はどうなったかと聞かれまして。あの家は鷹条家は手放したのでございます。ただ、花房の家元が買われたと聞きました」
「えっ……父がですか?」
「はい、りんさんのお父様が買われました。家元が私のことも探し出して、またぼっちゃまのお世話を頼みたいといらしたのですよ」
――なぜ……家元は私と先輩のことを、もしかして最初から知っていた……?
「父は私と先輩のことをご存知でしたか?」
「さぁ……それは……分かりません」
タエさんは首を傾げた。しばらく考え込んだ。
「ただ、離れのお世話を担当する花房のお嬢様が、後輩さんだと分かった時は心底驚きましたよ」
私は、父である家元が全てを知っていた可能性に、恥ずかしさと共にありがたいような、なんと表現したらわからない思いで胸が溢れた。
――ただの偶然なのだろうか……?
「りんさんと、私だけの秘密だと思っていますよ。ぼっちゃまが無事に思い出されるのを待ちましょう」
タエさんは、米のとぎ汁を片付ける私の背中にそっと声をかけてくれた。私は濡れた手を手拭いで拭うと、思わずタエさんの肩に頭をつけて泣き始めてしまった。
「りんさん、大丈夫、大丈夫」
「私……怖いのです……また先輩に何かが起きるのではないかと思うと」
タエさんは黙って背中をさすってくれた。
「大丈夫……大丈夫……この離れにいるぼっちゃまは幸せそうですから。もう、きっと大丈夫ですよ」
その時、誰かが離れに走ってくる音がした。鈴乃だった。顔色が真っ青になった妹の鈴乃が駆け込んできたのだ。
「お姉ちゃんっ!」
「どうしたの、鈴乃」
私は驚いて鈴乃に駆け寄った。
「家元が怪我をしたの。すぐに来て」
荒い息を整える間もなく、鈴乃はそう言って、また母屋の方に走って戻って行った。
「タエさん、あとはおねがいします。すみません」
私はタエさんに謝ると、すぐに母屋に向かって走った。
――お父様は無事かしら?
母屋に向かう近道を通った私は、父の部屋の前の菖蒲の花が枯れているのを見た。庭には金木犀の香りが漂い、秋の気配に満ちていた。
「家元っ!」
私が庭先から父の部屋に回り込んで、縁側にいる父に駆け寄った。
父は頭に怪我をした状態だったが、血もほぼ止まり、駆けつけた医者に止血のための包帯をしてもらっているところだった。
「大丈夫だ、りん。それより、気付かれた。雅親様はまだ帰らないか?りんのことがバレるのも時間の問題だ」
私は気づかれたという家元の言葉に、言葉を失った。
「……誰に気づかれたのでしょう?」
父は医者が完全に部屋から離れるのを待った。 父が人払いしたいと合図をして、鈴乃も黙って部屋を出て行った。
私は縁側から父の部屋に上がった。
父は障子も襖も全て締めきった。
「水鏡院に気づかれた。あの家は——他者の記憶を水面に映すように読む家だ。
私はあっと思った。 息ができなくなった。
水鏡院家…?
記憶を読む力を持つ家…?
先輩は2年半に記憶を失くされた。
記憶を読む家と、記憶を失くした先輩。
水鏡院の力が先輩に働こうとして、何かが起きたとしたら…。
理人さんが、この前「水鏡院の力は侮れない」と言った時、先輩がひどく苦しそうに頭を抱えてらした。
鷹条家の失墜と同時に、役職を得て飛躍した水鏡院家。
――もしかして……もしかして?
私の胸の動悸は激しくなった。
「お父様……もしかして、あの2年半前の出来事は……」
「そうだ。無関係ではないと私は思っている」
頭の中で、何かとても大事なことを見落としている気がした。
「当時、鷹条家に、特別な力が宿ったという噂が確かにあった。誰かが覚醒させたに違いないという噂だ」
私は父が話すのを黙って聞いていた。
「愛している」と先輩は言ってくれた。私たちはただお互いを求めただけだ。
でも、先輩は…明らかに香りの力が濃くなっていたと思う。
「タエさんはお前が誰だか分かっていなかった。私もお前が詰襟姿に道行コートを着て出掛けているとは知ったが、事態を把握できていなかった」
父の言葉は、私にある真実を悟らせようとしているかのようだった。
「お前と雅親様の秘密を知る者は、お前たち2人以外にいなかったとしたら、だ。誰が雅親様の力を覚醒させたのか、興味本位で探ろうとしたら、雅親様に直接聞くしかない」
ーーもしくは、先輩の記憶を盗み読むか。
私は背筋が凍るような思いだった。
「あの時の相手もお前だとバレたら」
私は父が眉を顰めた。不安気に父が唇を震わせるのを初めて見た。
「りんの身が危ないのだ」
父がそう言ったとき、涙が溢れた。
――ごめんなさいっ……私が身分違いの身でありながら、華族様と一線を超えたからだ。
「雅親様との間に何があったかは私は聞かない」
家元はそう言った。
「だがな、りん」
父は苦しそうな顔をした。
「お前たちが隠し通した秘密を、水鏡院は今も探している」
私は息を呑んだ。
「なぜ……」
「2年半前、鷹条雅親様の力が覚醒したのを覚えていて、今も、帝を操るために、自分たちの力を覚醒させたいからだろう」
父は低い声で続けた。
「何がきっかけだったのか、水鏡院も探っている。今回も、お前が雅親様と綾小路家の蛍狩りに行った夜に、雅親様の記憶が戻った」
私は口付けで、先輩の記憶が戻った。
父は苦々しそうな表情になった。
「水鏡院家から婚姻の申込みがあったのだ。断るつもりだと伝えた帰りに、襲われた」
「私との婚姻ですか……お相手は水鏡院のどなたとですか?」
「澄哉様だ。水鏡院の次期当主になられる方だ。歳は二十六歳だ」
私は暗闇に堕ちたような、どうにもならない沼にはまってしまったような気分になった。
「もし、お前が、2年半前に雅親様のそばにいた相手なら」
父は震える声で言った。
「奴らはお前を手に入れようとする。どんな手段を使ってでも」
私の恋が、先輩を追い詰めたのかもしれないと、初めて気づいた。




