りんSide 先輩ではないあなたを、私は守りたい
「せ……雅親さん!」
私は先輩と呼びかけてしまいそうになり、慌てて「雅親さん」と呼び直した。先輩は気づかなかったようだ。
「何?りんちゃん」
優しく微笑んで私を見つめ……振り向いた先輩は、ハッと目を見開き、私のサマードレスに釘付けになった。
「……す……素敵だ」
先輩はそうつぶやき、ポッと頬を赤らめた。タエさんがクスッと笑って、私たち二人に火打ち石で験担ぎをしてくれた。
「さあ、お二人とも行ってらっしゃい!帝のご用意したお車で、帝の葉山の別荘にご招待だなんて……もう、奥様が生きていらしたら」
タエさんはウルウルとした瞳で私たちにそう行って、先輩の背中をトンと押して送り出してくれた。
「行ってきます」
「タエさん、お留守の間は、本当によろしくお願いします」
「えぇえぇ、今日のそのドレス、本当に素敵ですよ。家元が張り切って洋装を仕立てて正解でしたよ」
タエさんは私のドレスを褒めてくれた。
家元である父は、先輩の記憶がおおかた戻ったと聞き、離れまで走って駆けつけてきたくらいだった。翌日には帝にも呼ばれたと聞き、さらには葉山の別荘にご招待され、私も記憶をより戻すために連れて行くようにとの言葉があったと聞き、「おりん!大変だ」と騒いだ。
父があれほどバタバタをした様子を見せるのは初めてだった。
「避暑地とあれば、鷹条様に恥ずかしい思いをさせないような洋装をすぐに仕立てなさい。そうだ、月岡さんにも付き添ってもらいなさい」
父はそう言って、私を仕立て屋に送り出したのだ。
父が月岡の家元に相談したので、月岡側も大騒ぎになり、「りんちゃんが、帝の別荘に鷹条様とご一緒に招待された」となり、沙千代はすぐに飛ぶように駆けつけてくれた。
2人で洋装の仕立てをしにもらいに行き、ついでに、沙千代も仕立ててもらったのだ。私たちは恋の相談をして、千時屋であんみつを食べた。
帝のご用意してくれたお迎えの車の中では、私たちは少し緊張していた。運転手の方も帝付きの方だったのと、いよいよ鷹条家が表舞台に復帰できる兆しが出てきていたので、家元である父にも厳しく言いつけられていたのだ。
「りん、粗相があってはならない。これは、鷹条家が復活するきっかけなのだから。あと、毎朝、毎晩、舞を踊りなさい」
花房の舞には、邪を遠ざける力がある。
幼い頃から父にそう言われ続けてきたが、私はそれを稽古の言葉として受け取っていた。
だが——本当はもっと違う意味を持っていた。
花房の屋敷の中心に建てられた離れ。
毎朝毎晩、私が舞い続けてきたこの場所。
先輩をここにお呼びしたのは—— この結界の中心に、先輩を置くためだったのだ。
ようやく分かった。
父は最初から知っていたのかもしれない。
花房家の血筋を引く者が先輩を守れる唯一の存在だということを。
父が葉山で毎朝、毎晩、舞を舞うようにと私に申し付けた言葉で、私には家元の意図が理解できた。
私は舞を継ぐ家の娘。
そのことの意味が、強く私の心に刻まれた。
――先輩が二度といなくなるようなことがあってはならない……。
私は、昨夜、家元に言われた言葉を胸に、葉山への道中も葉山滞在中も、先輩のおそばを離れないようにしようと心に決めていた。
葉山の別荘はとても素晴らしいところだった。海を望む場所に建てられ、静かで、凛とした空気が漂っていた。先輩は、私のサマードレス姿が新鮮だったようで、何度も私を見つめては頬を赤らめていらっしゃった。
私もこそばゆいような、恥ずかしいような、なんと表現したら良いのかわからないような感情で、先輩が私のそばにいることが嬉しくて、思わず先輩と呼びかけそうになるのを何度も堪えた。
波音が静かに聞こえ、潮風が髪を揺らし、先輩の着ていらっしゃる着物の裾がはためいた。胸元の肌が見え、足元の着物が揺れるたびに、私の心も揺れた。
夜には綺麗な月がかかり、満点の星空が美しかった。
「こっちにおいで」
「はい」
私は先輩に抱き寄せられて、サマードレスのむき出しの腕ごと先輩の胸に包まれた。白檀の香りがして、私の心はあの夜のように先輩に強く惹きつけられた。
「りんちゃん、ずっと一緒にいよう」
先輩が耳元で囁いた。
私は、恥ずかしかったが、嬉しくて嬉しくて、涙が溢れるのをこらえきれなかった。
「はい。おそばにいます」
私はそう答えた。
実は、葉山では、もう一つ、私に目的があった。
――先輩に頂いたあの花菖蒲の浴衣を夜に着てみよう。もっと記憶を戻してくださるかもしれない……。
記憶を戻してもらう必要があるのは、帝からのお言葉で分かっていた。だからこそ、私が一緒に行くようにと帝は言われたのだ。
――でも……記憶を取り戻してということは……私との関係を思い出されると言うこと。私はそれを望んでいる……。
私はそのことを思うたびに、勝手に顔が火照り、不埒な自分の欲を満たすために、記憶を取り戻すという目的にかこつけて、花菖蒲の浴衣を着るつもりではないかと、自分に自問自答した。
――それは……あっている……私はまた……先輩に触れてほしいから……。
夜になり、お風呂を頂いたあと、私は花菖蒲の浴衣を着て、先輩の元に姿を現した。
「……りんちゃん……」
先輩の喉がゴクリと鳴るのが分かった。
――せ……せんぱい……思い出してくれましたか……?
私は期待を込めて先輩を見つめた。
「……とてもよく似合っている」
絞り出すように先輩がそう言った。
私は先輩の胸に飛び込みたい衝動を抑えるのに必死だった。
――先輩は思い出してくれていない……。
私は落胆したが、私にとっても特別な浴衣だったので、先輩に触れられた時の感覚に身をやつすはめになった。
先輩は、手を握ることも、抱きしめることも、口付けをすることもあった。
けれど、それ以上は決して求めなかった。
時折、苦しそうなほど熱を帯びた瞳で私を見つめるのに、先輩は必ずそこで止まるのだ。
まるで、大切なものを壊さないように耐えている人のようだった。
先輩が止まるたびに—— 私は先輩の優しさに、泣きそうになった。




