鷹条Side 記憶が戻って、帝からの呼び出し
――よし!
先輩とやらより、素敵な場所での蛍狩りに連れて行ける……!
綾小路家の蛍狩りに招かれて、私の心は浮き立った。綾小路家の蛍狩りは子供の頃から何度も訪れた催しだった。だが、最近は行っていなかったような感覚がある。
理人に聞いたら、イギリスから帰った後、私は蛍狩りに参加しなかったというから、あながちその感覚は間違っていなかった。
だが、なんだか、どこか別のところで蛍を見たような気もしていた。
綾小路家に向かう人力車に乗っている間、私は以前もこんな風に人力車に乗ったのではないかという気がしていた。
りんちゃんは、艶やかな着物を着て、とても大人びて見え、最初は直視できなかった。
人力車の中で肩が触れ合うと、胸の鼓動が止まらないほどだった。肩が触れ合うたびに、りんちゃんを抱き寄せたくなる気持ちを抑え込んでいた。
そのうち、私の頭の中は「りんちゃんは、先輩とも蛍狩りに行ったのか?」という疑問でいっぱいになった。
――こんな綺麗で可愛い女性を目の前にしたら、帝都のどんな行事にも誘ってしまうに違いない。
――それにしても、なんて可愛いんだ……。
「最近、蛍狩りに行かれたのはいつ頃です?」
何気なく聞いてみた。
「3年前に、畑ばかりの所で蛍を見た限りです」
りんちゃんは、なぜかそれを聞いて欲しくないといった様子で、私に答えた。遠い目をした。
「そうか」
――よし!
やっぱり、先輩とやらより、素敵な場所での蛍狩りに連れて行ける!
私はとても嬉しくなった。綾小路邸の築山は、帝都三大庭園にも選ばれるほどの場所。そこでの蛍狩りは格別だ。
私は不埒な計画を立てていた。
――今日は、必ず口付けをしよう。
私は心に決めていた。りんちゃんの昔の男である『先輩』とやらに負けるわけにはいかないのだから。
白いうなじが襟元から見え、ほつれた髪がふわふわと撫でるように風に揺れていた。それを目にした瞬間、私の心は掻き乱された。
私は人力車の中でそっとりんちゃんと手を繋いだ。りんちゃんの瞳が私の顔を見上げた。私たちは見つめあった。
――幸せだ……!
胸のうちが熱くなった。
理人と綾小路家の当主は私たちを大変丁寧にもてなしてくれた。久しぶりの築山だ。空には月が上り、星がたくさん見えており、川からの空気はとても涼しかった。
綾小路家の庭園の川辺で、りんちゃんは下駄を脱いで涼しい川の中を歩こうとした。その時に裾が捲れて、白い足が見えて、私は内心焦った。
――理人に見られるのは困る。
――理人はりんちゃんのことに優しすぎる……好ましいと思っているのだろうから……。
分かっている。私は全方位の男性に嫉妬をしているだけの状況なのかもしれない。
だが、我慢ならなかった。私はりんちゃんを自分の方に引き寄せようとした。
その時、鹿乃子さんが急に庭園に姿を現した。本当に驚いた。
だが、その瞬間にりんちゃんが落ち込んだのが分かった。
私は夢中だった。何も考えていなかった。理人だけでなく、鹿乃子さんからも見えない位置にりんちゃんを連れて移動した。
蛍が舞う暗闇で、りんちゃんを抱き寄せて、口付けをした。
温かな唇が私の体に今まで知らなかった衝動を与えた。
止まらなくなった。何もかも放り投げたくなるほどの、切なく愛しいキスだった。何度も何度も口付けをした。
――違う。先輩とやらに勝ちたいわけじゃない。私は、りんちゃんが欲しいのだ。
そのうち、私の頭の中に何かがふわっと形作られた。
――な……なんだ……?
白檀。
雨。
イギリス?
船に乗った理人。
紫の帳。
帝大か……?
一気に膨大な量の映像や思いが押し寄せてきた。
――私の記憶だ!
失っていた記憶が一気に戻ってきたのだった。
大量の記憶が押し寄せ、私は崩れ落ちるほどの喜びを感じた。
鹿乃子さんも大喜びしてくれていた。
理人も、綾小路家の当主も涙を溜めた瞳で、私を見つめて、抱きしめてくれた。
ただ、帰国後から政変前の約1年半——その期間だけが、まだ霧の中だった。
帝大に通っていたはずの時間。
香席に出ていたはずの時間。
何かがあったはずの時間。
それだけが、どうしても思い出せなかった。
そのあと、鹿乃子さんには、「私が恋をしたのは別の方でした」ときちんと伝えた。彼女は泣き崩れた。本当に申し訳ないが、私はそういう男なのだ。
2年前も同じことを私が言ったと鹿乃子さんが言った。
――当時、私には誰か特別な女性がいたということか。
だが、何も思い出せなかった。
蛍狩りは特別な夜になった。
りんちゃんと口付けをしたこと。失った記憶の大半を取り戻したこと。そのことが繋がっていると指摘したのは昔からよく知る帝だった。
その翌日、私はすぐに帝に呼び出されたのだ。皇族がお住まいになる住まいは、何度も訪れたことがあった。だが、ここ2年は私は引き篭もっていたので、帝にはお会いしていない。
久しぶりにお会いする帝は、とても疲れているように見えた。
その場に先に呼びだされていたのは、帝都新聞社の御曹司、三田公彦だった。帝大を出たのは、私より数年先だったが、既に政治欄と社説を任されている。
二人は、私のことが新聞に掲載された件について話しており、帝は新聞社の方に苦言を言いたいらしかった。
「三田くん、少しは世の役に立つ記事を書きたまえ。恋愛記事ばかりでは困るな」
「しかし、陛下は、帝都の娘たちは“帝都の貴公子”の記事を最も熱心に読むのです」
「若者の恋を書き立てる暇があるなら、もう少し世のためになる記事を書け」
三田くんは、苦笑して断言した。
「売れるのです」
帝が笑い出した。
「帝都の娘たちは、こやつに夢中だからな」
帝は真面目な顔になり、私の方を見て囁いた。
三田君も帝も仕方ないと言った表情で互いに目配せをしている。私は恥ずかしかった。
三田君が先に辞すと、私は帝に耳打ちされた。
「香りの方の感覚は戻ったな?」
「はい。おおかた戻りました。あとは、イギリスから帰国した後の1年半分がないのですが」
「私の認識では、お前の感覚は2年前に非常に強くなった。覚醒というべきかな。その後に何かが起きたんだ。だから、今のお前の感覚は覚醒前の感覚だろう」
鷹条家の香りの力は、帝にとっては特別なものとされ、要されていた。
毒、偽装、すり替え、香による暗号、外交使節と様々な場面で帝の役に立ったのだ。
「もっと思い出すように」
帝は、私が記憶を取り戻した祝いにと、ご所有されている葉山の別荘を貸し出してくれた。
「もっと思い出すために、その花房家の令嬢を連れて行きなさい」
――な……なんとっ……!
「雅親、耳まで真っ赤だ」
「あっ、これは大変……ありがたい申し出でありまして……そのっ……」
焦った私は、弁解しようとしたが、全て帝に見通された。
「九重家のことは私がなんとかしよう。だが、一色財閥の令嬢も君にご執心という報告があった。2年前のような騒ぎは困る。花房の令嬢を守りたまえ。今、君は彼女を連れ歩いているのだから」
私はハッと頭を下げた。
――その通り……。
私はりんちゃんを守らなければならない。
そして帝の申し付け通り、りんちゃんと一緒に葉山の避暑地に行くことになった。
***
今、私の目の前には、白いサマードレス姿のりんちゃんがいた。
花房の家元には、帝からの申し付けと、りんちゃんに同行していただきたいと頭を下げて頼み込んだのだ。
白いサマードレスの裾が風に揺れた。
麦わら帽子を押さえながら振り返ったりんちゃんに、私は言葉を失った。
――まずい。
着物姿より、ずっと危険だ。
海辺の砂浜に佇むりんちゃんは、笑顔で私の方に走ってきた。
私の心臓は……早鐘のように高鳴った。
幸せすぎて、今日死んでしまうかもしれない。
この夏の熱に焼かれてしまいそうだった。
****
三田くんは、葉山にも帝都新聞の記者を張り込ませていたようだ。早速、翌日の新聞に掲載されて、私は青ざめた。
【帝都夜話】
帝都の某華族の若君が、
避暑地にて白の洋装の令嬢と散策する姿が目撃された。




