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りんSide 記憶を失った先輩と、2年ぶりの口付け

「では、行ってまいります」

「あぁ、綾小路様にはくれぐれもよろしく頼む」

「はい」


私は家元に挨拶をして、母屋から離れに向かった。

透け感があって、風通しの良い紗の着物を着ていた。仕立てたばかりの着物だった。


今日は綾小路家より、築山のある庭園での蛍狩りに招待されたのだ。


「鷹条さま」

「りんちゃん、雅親(まさちか)と呼んでくれますか」


――せ……せんぱい……?お名前ですか?


記憶を無くされる前も、決して名前で呼ぶようなことはなかった。先輩が「先輩と呼んで」と仰ったからだ。


「ほら、理人の所に行く前に呼んでみてほしい」

「あっ……そのっ雅親(まさちか)様」


私は呼んでおきながら、顔が真っ赤になった。見上げると、先輩も耳まで真っ赤になって照れたような表情をされていた。


「うん……幸せだ」


先輩が一言そうつぶやいた。先輩は私を手を引いて人力車に乗せてくれた。


流水のそばでたくさんの蛍を見る蛍狩りは、限られた家同士の夜会だ。あたりはもう夕暮れ時だった。


夜の庭園での蛍狩りに先輩と出かけるのは初めてだった。詰襟姿で帝大生のふりをして先輩と帝都を巡っていた年は、鷹条家の持つ土地の畑で、地元の人々に混ざって見た。


今日は、理人さんの招待で、私は女性の姿のまま先輩と一緒に出かけることになった。


ドキドキは、綾小路家の方々にお会いするからだと思った。


だが、着物姿の先輩の隣に座っていると、狭い人力車の中で先輩の肩に触れ、襟元から先輩の肌が見えて、2年前の記憶がある私は、体が熱くなるのを抑えられなかった。


先輩は、私の手を握り、夕暮れ時の帝都を眺めながら、私たちは時折見つめあった。


先輩の透き通った瞳が私を見つめると、私はどうしたら良いのかわからないほどに、胸が高鳴った。


――だめ……変なことを考えちゃだめ……。


私は不埒な残像を振り払おうと、何か話題を探した。

「綺麗だ」


先輩が私の耳元で低い声で囁いた。


私は耐えられないほど、記憶が蘇ってくるのを抑えられなかった。


――覚えてないのに……そんなこと言わないで……先輩。


私は体をそっと先輩から身をよじって離れようとした。先輩は、私のうなじにすっと指を滑らせた。


あぁっ……。


「ごめんっ!なんだか指がそう覚えていたというか、なんだろ……本当にごめん」


先輩はハッとした様子で、慌てて謝った。頬が上気していて恥ずかしそうだ。


「いえ、大丈夫です」


綾小路家の庭園は、広大だった。中に川も流れていて、夜風も涼しかった。砂利を踏む下駄の音が気持ちよく響く。


「本日は、ご招待いただきましてありがとうございます」


「雅親くんと、花房のお嬢さんだね。いらっしゃい」


綾小路家の当主は気さくなお方だった。先輩のことは子供の頃からよくご存知の様子で、記憶が子供の頃までしかないというのも承知されていた。


冷酒をいただいた。いきなりお腹が空いた所に飲んだので、私は急に酔ったような気分になった。鮎の塩焼き、枝豆、冷やし茄子の小鉢、水羊羹などが並べられたお膳がご用意されていて、いただいた。


蛍狩りが目的なので、すぐに先輩に手を引かれて、私も川辺に降りた。裾がはだけて、日に焼けていない白い肌が見えてしまい、先輩が無言になった。


理人(りひと)たちに見せたくないから、りんちゃん、こっちに行こう」


先輩はそう言って、私を川辺の石の上に引き上げようと手を差し伸べていた。水のせせらぎが心地よい。


その時だ。


鹿乃子(かのこ)さんっ!」


理人さんのただならぬ声が響き、綾小路家の当主の声が遠くで聞こえた。


「理人さん、来ちゃいましたわ。こちらの蛍狩りは有名でしょう?ところで、雅親さんは今日はいらっしゃいますよね?」

「あ……それが……」


当主と理人さんが困ったような声を出すのが聞こえた。


「あら?花房のお嬢さん?」

遠くから鹿乃子様の声が聞こえた。


「今日の蛍狩りは一般の方にも公開されましたの?」


鹿乃子様のイライラしたような声が響き、私は身がすくんだ。


――そうだ……私は場違いな所に来てしまっている。


――なぜ、こんなところまで来てしまったのだろう。




鹿乃子様と理人さんがこちらに近づいてくる気配がした。先輩は灯りを消した。私は先輩に抱き寄せられた。


「シーっ……ほらみて、蛍が見えるでしょ」


灯りを消したことで、川辺の周りにたくさんの蛍が飛び始めたのがよく見えた。


私は抱き寄せられまま、肩を抱きすくめられ、そっと川辺から上がり、近くにかけられていた橋まで手を引いて連れて行かれた。


「ほら、ここなら蛍は見えるけど、他の人から見えないから」


先輩は私にそう囁いた。


でも、私の目には蛍より、真っ暗闇の方が見えていた。


――私がこんな所にいては場違いだ。先輩のおそばに居続けられるなんて、こんな状態は長くは続かない。


――私は、先輩の記憶も戻せず、身分違いのくせにこのまま先輩の横に居座るつもりだったのだろうか。


私は自分が惨めで、情けなくなり、下を向いてしまった。


「りんちゃん、ほら、蛍だよ」


先輩は私に囁いたが、私の目からは涙が溢れ初めていたので、顔が上げられなかった。


――泣いている顔を見られたくない……。


私はそのまま抱き寄せられ、先輩の温かい腕の中に2年ぶりに閉じ込められた。


「りんちゃん、ほら、こっちを見て」

先輩は私のおでこに口付けをして、私に囁いた。


私は思わず驚いて身をすくめた。その瞬間、先輩は私の頬を両手で包み、そっと唇に口付けをした。


柔らかくふわふわの唇が私の心を溶かした。

私は先輩の口付けを受け入れた。


何度も何度も口付けをされた。


私も抑えきれなかった。2年ぶりだった。


2年ぶりの口付けだった。

私の体は、先輩を忘れていなかった。


先輩が教えてくれた口付けは、忘れられない。


「もう止められない……」


先輩はうめくように低い声で囁くと、私を抱きしめて深い口付けをした。


「いや?」


先輩が確かめるように私に聞いた。


暗闇の中でぼんやりとしか先輩の顔は見えないが、私たちの周りを明るく照らす蛍が、何十匹も飛んでいた。


「いやじゃないです」


私は恥ずかしかったが、小さな声で言った。


先輩の胸の中でこうして先輩にぴたりとくっつくように抱きしめられて、先程の「身分がだいぶ違う」という鹿乃子様の発言を、どうにか胸の外に追い出した。


「りんちゃん、好きなんだ」


先輩はそう囁き、私の風にほつれた髪を撫でた。もう一度口付けをされた。


暗闇の中で、蛍の灯りだけが輝くようだった。

抱きしめられた私は、舞い上がりたいほどの気分だった。



「雅親さん?」


その時、誰かがすぐ近くで先輩を探す声がした。


先輩が低い声で独り言をおっしゃった。


「……雨の匂いだ」

「違う……白檀……」


先輩の体がぴくりと震えた。


「白い煙……香木……雨……」

「西洋帰りの理人……紫の帳……」


先輩が私を抱きしめたまま震えた。

何か頭の中に浮かんだかのように独り言をおっしゃった。


「思い出した!」


先輩は急に私の顔を見つめて、そう囁いた。


「思い出しましたか?」

「そう、西洋から理人と一緒に帰国したところまでは思い出した」


そのやりとが、そばまできた鹿乃子様にも聞こえたようだ。


「雅親さん、思い出したの!?」

「鹿乃子さん、今までごめんなさい。ある程度思い出した」


「凄いわ!」


鹿乃子様は飛び跳ねるようにして言った。


「理人さん!雅親さんが思い出したわ!」


鹿乃子様は理人さんに教えに行った。


「西洋から帰ったところまでは覚えているが、その後の3年間ぐらいがまだわからない」


蛍の飛ぶ様子を眺めながら、先輩は何かを考え込んでいた。


その夜、理人さんや綾小路家の当主が先輩を取り囲み、手放しで喜んでくれていた。

「鷹条家がこれで浮上できるな」

「帝に報告をせねば」


ただ、先輩は鹿乃子様を川の上の橋のたもとにそっと呼び出して、一緒に蛍を見ながら何かを話していた。


風に乗って、鹿乃子様の声の断片が聞こえてきた。


不安に駆られて私が様子を見守っていると、鹿乃子様が崩れ落ちるようにして、何かを言っていて、先輩がその肩を両手で包むようにして、立ち上がらせていた。


「私が恋をしたのは別の方でしたって、2年前も私にあなたはそう言ったのよ……」

「それは……」

「それは覚えていらっしゃらないのに、なぜ同じことを仰るの……?」


鹿乃子様は泣き崩れた。


「すまない、鹿乃子さん」


鹿乃子様は、先輩の胸を何度も拳で叩いて、泣いておられた。


蛍が舞う月夜、川のせせらぎが気持ちの良い夜だったが、先輩の口付けで舞い上がった心が、静かに沈んでいった。


鹿乃子様が本気で先輩を好いてらっしゃったのが、分かったから。

恋をする人の気持ちが、痛いほど私には分かった。


私は鹿乃子様に恨まれた。

私の本当の「先輩」は鹿乃子様だ。鹿乃子様は、同じ女学校の先輩なのだから。それなのに、帝大生でもなんでもない私がかつて帝大生だった貴公子を「先輩」と呼んでいる。ふざけた話だ。完全に舞い上がった泥棒猫と泥棒猫と関係を持ったことを忘れた貴公子の間で2人で決められた秘密の暗号の呼び名だ。

 

私が恋したのが悪い。許嫁が鹿乃子様だと最初から知っていたら、違った結果だったに違いない。



***


その翌日、帝都新聞に出た記事が波紋を呼んでいた。鈴乃はようやく離れにいるお客様が誰だか悟ったようだった。


「これって、お姉様のことでしょう!?」

朝から鈴乃が大騒ぎして、私も事態に青ざめた。




【帝都夜話】


両国花火大会の夜、かつて“帝都の貴公子”と呼ばれた某華族の若君に酷似した青年が、薄紅の着物の令嬢と親しげに歩く姿が目撃されたという。


一時は政変により表舞台から姿を消したとされるが、はたして本人なのだろうか。


社交界では、「以前より色気が増した」との声も囁かれている。



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