鹿乃子Side 雅親さんの隣にいた女性は誰?
「ねえ、お聞きになりました?」
「帝都の貴公子が女性を連れて両国花火大会に姿を現した話ですか?」
「そうそう。なんというか、色気が増されて……」
「きゃーっ、大胆なことをおっしゃる」
「でも、もっぱらの噂ですわよ。帝都の貴公子にそっくりな方が、若い二十歳ぐらいの女性と手を繋いで歩いていたと」
夜会で、赤い葡萄酒を飲んでいた私は、はっとして手を止めた。
――雅親さんが……?
――まさかっ!
「薄紅の着物を着た女性だったそうよ」
私の右手の中のグラスの赤い葡萄酒が、血のように見えて、私はそっとテーブルの上にグラスを置いた。
背中が大きく開き、腕も胸元も露出したドレスを着ていた私は、泡立つような鳥肌が全身に立つのを感じた。
――あの娘……?
――花房の家元の娘ね……?
――やはり、2年前の婚約解消も、あの娘が絡んでいたのではないかしら?
私の頭の中は、胸の中の切ない痛みとは裏腹に高速に真実に近づいてきているような気がした。
香席で、確かに私はあの娘から、白檀の香りがするのを感じた。
――雅親さんの香り……。
だからこそ、身分違いの娘が紛れ込んでいるなどと、悪口を言えたのだ。本能的に苛立つ香りをあの娘は放っていたから。
――落ち着くのよ、鹿乃子……まだそうと決まったわけではないわ。
震える思いで、息を吸った。
――私が動揺したら見苦しいわ。雅親さんのことなんか、過去の話として、なんでもない顔をしなければ。
私は唇を噛み締めた。
「ねぇ、シャンパン1つちょうだい」
私は近くのボーイに声をかけて、赤い葡萄酒の代わりにシャンパンのグラスをもらった。一口飲むと、私の中の渇きを弾ける泡が一気に満たしてくれた。
喉の奥でカッと熱く何かが弾けた。
深呼吸をして、口元に笑顔を浮かべる。
シャンパンのグラスを手に、すっと席を立ち、噂話に興じているイブニングドレス姿の女性陣に近づいた。
「あら、そのお話、私にも聞かせて?」
「あっ、九重鹿乃子様っ!」
「いいのよ、雅親さんもようやく傷心から立ち直るのよ、喜ばしいことですわ」
「……あっそうでございますわね……本当に」
「そうよぉ、あの政変のあと、鷹条家は本当に大変だったのよ。少しぐらい気晴らしをしてもねぇ……良いと思いますのよ」
私はそう優雅に微笑んで、ぐいっとシャンパンを飲んだ。
上品な仕草で少し離れた所にいる若い華族の男性に目配せした。
――私をダンスに誘っていただけるかしら?
無言で合図を送ると、初々しい笑顔を浮かべた華族の男性がダンスのエスコートをするために近づいてきた。
「では、ごめんなさい。私も楽しむので」
私は小声でそう囁くと、グラスをボーイに渡して、男性が差し出した手を取り、ダンスホールに滑るように足を進めた。
私は彼の肩にそっと指を添え、そのまま音楽に身を預けた。
「鹿乃子さん、どうして僕を?」
「少し酔ってしまったみたい。支えてくださる?」
私はにっこり微笑んで、若い彼の肩に頭をそっとつけた。
――記憶を取り戻すための試みかもしれないじゃない?
――雅親さんが記憶をなくしたのは、九重家の中でも、ごく一部の者しか知らないぐらいに秘密のことだわ。
――帝都中にその話をばら撒く必要はないわ。
――ただ、あの娘は許せそうもない……。
――でも、私は九重鹿乃子よ。絶対にジタバタしてはだめ。
「鹿乃子さん、何を考えています?」
「うふっ、バレました?あなたと次にどこに行くか考えていましたわ」
私は目の前の男性を見上げて微笑んだ。
「綾小路さん、私を素敵な所に連れてって」
「はい」
彼は綾小路家の次男の理人だ。
――雅親さんの親友だわ。彼なら、何か知っているはずよ。
隣で男性と踊っている一色百合乃が目に入った。一色財閥の令嬢だ。
一色百合乃も大きく背中が開いたドレスを着て、髪の毛を高く結い上げていた。類稀なる美貌を持っていながら、性格が少々天然で、向こう見ずなところがあるが、素直な良い娘だ。
百合乃は、先ほどまで、私に散々恋愛相談をしていた。自分の意中の憧れの男性が、かき氷屋で、弟と2人で同じスプーンでかき氷を食べていたという話をしていたのだ。
「鹿乃子さん、そんなことってあります?弟と同じスプーンでかき氷を食べるんですよ。それがもう、なんかいやらしくて……」
「いやらしいというより、兄弟仲がいまだにいいということなんじゃないかしら?」
「そうですかぁ?弟さんに嫉妬してしまったんですよ、百合乃は」
私は吹き出した。
一色百合乃は、とことん、その美貌の男性に心奪われているようだ。
「間接的に……ほら……唇と唇が……」
百合乃は、自分が見てしまった禁断の場面を告白するかの如く、私に相談してきたのだ。
「もうっ、百合ちゃんたらっ」
「気にしすぎよ」
私はそう百合乃の戸惑いを一蹴した。
だが、そのことは過ちだった。 百合乃が話していた相手は——雅親さんのことだったのだ。 私はまだそれに気づいていなかった。
――私は九重鹿乃子よ。
――帝都の貴公子の隣に立つのは、本来、私だったのだから。誰にも奪わせないわ。
私はこの時はまだそのことを分かっていなかった。
百合乃が恋した相手が誰と一緒にいたのかも。
両国花火大会で雅親さんが手を繋いでいた女性が誰かも。
そして。
帝都の貴公子が、誰よりも大切にしている女性が誰なのかを。
全て同じ人だということも。




