女性として、歩いてみたい
先輩と日本橋のデパートに行くのは、初めてではなかった。3回行ったことがあった。
でも、先輩は何も覚えていないのに、私を誘ってくれた。
そのことだけで、私の心は舞い上がっていた。
先輩は洋装にハットと言われる洒落た帽子を被り、金縁眼鏡をかけていた。いつも以上にお洒落で、長い髪の毛が風に靡く様は、本当に素敵だった。
「帝都の貴公子」と呼ばれるほどの美貌は健在だった。
ただ、よく考えると、今日の先輩は変だった。
時折、先輩が美しい顔に非情なまでの嫌悪を浮かべて周囲の人を見ている瞬間があった。そんな表情は今まで一度も見たことが無かった。
近寄りがたいほどの美貌をお持ちの方だが、私が隣にいる時はいつも穏やかな顔をされていた。それなのに、今日は不機嫌そうな雰囲気の時も多々あった。
――なぜだろう?
でもハットケーキを食べている時は本当に幸せだった。
――また先輩とこれた……嬉しい……。
それに、先輩は私に記念に何か買って下さると提案してくれた。そんなことは今まで一度も無かった。
私は心底嬉しかった。
でも、「弟さん?」という一色百合乃さんの一言で、現実に引き戻された。
――そうだ。私は女性として先輩の横にいるわけじゃなかった……。
――先輩の記憶を取り戻すために、先輩に協力をお願いされているだけの身なのだ……。
まばゆいばかりにキラキラしている一色百合乃さんは、勘違いをしている私を、奈落の底に突き落とした。
先輩は慌てていらしたと思う。
そこに、九重鹿乃子さんまでいらして、私は穴があったら入りたかった。
――何を私は浮かれていたんだろう?
先輩に手を引かれて走ってデパートを出た。
走っている間は、嬉しかった。
先輩と手を繋ぐのは、2年ぶりだったから。
でも、市電に乗っている間はずっと、舞い上がっていた自分が見窄らしく、惨めな存在に思えた。
私は身分差のある先輩の横にいれるとまた舞い上がっていた。
しかし、現実には、先輩のおそばにいれるような身分ではない。
2年前は、私のせいで、九重家と鷹条家が断絶してしまったようなものだ。
帰って来る間中、私は考え込んでしまった。
でも、路面電車から降りて、花房の屋敷が近づいてきた時、先輩は私を花火大会に誘ってくれた。
驚いたことに、先輩は特別なことを言った。今まで一度も言われたことのない言葉だった。
「なぜって……私があなたと、着物姿のあなたと、女性としてのあなたと、一緒に歩きたいと思うから」
『女性としてのあなたと、一緒に歩きたいと思うから』という突然の言葉に、私は涙が溢れそうになった。
――せ……せんぱい……?
――先輩は女性の私と一緒に歩きたいのですか……?
記憶を思い出すための散策とは、意味が大きく違っていた。
――私に、女性として、隣を歩いて欲しいのですか?
私は信じられない思いでいた。
先輩の顔を見上げて、私は行きたいと返事をした。
記憶を失う前の先輩とも—— 女性として並んで歩いたことは、一度もなかった。 いつも詰襟で、後輩のふりをしていたから。
胸が熱くなった。
先輩と、女性として並んで歩ける。
そんな日が来るなんて、思ってもみなかった。
――まだ信じられない……。
花房の屋敷の離れに戻ると、タエさんはニコニコして「おかえりなさい」と迎えてくれた。
「まぁ、お二人ともさぞ楽しかったのでしょう、お二人とも幸せいっぱいに見えますよ」
タエさんに言われて、先輩は頬を赤くして笑っていた。
そんな先輩を見るのは初めてだった。
私も幸せいっぱいだった。
その夜、私は衣装ダンスの中にしまった、あの薄紅の着物を取り出した。丁寧にしまわれた包みを開けて広げてみた。
あの時、口付けをしてもらった時の着物だ。
――この着物で、花火大会に行こう……。
私は溢れる嬉しさに耐えられず、小さなため息をついた。
体が震える。
――また、口付けをして欲しいわけではないけれど……。
――いや、本当はして欲しいけれど……そんなことは絶対に願ってはいけない……。
夜、眠る時も、まだ私の心臓はドキドキしていた。
***
両国花火大会の日がやってきて、私は薄紅の着物を着た。鈴乃は大騒ぎだった。
「お姉様、あの離れのお客様とご一緒に行かれるの?鈴乃もご一緒したいの!」
「鈴乃は女学校のお友達と行くのではないのか?」
父である家元が、鈴乃をなだめていた。
「お父様、あのお方はどなたなのです?」
「それは秘密だ。鈴乃も外であの方のことを話してはならないぞ」
「分かっています。でも、お姉様ばかりあの方とご一緒に過ごされていて……」
「花房家にも関わる大事な仕事なのだ」
そう言われて、鈴乃はほっぺを膨らませてまま、仕方なさそうに頷いた。
「わかりました、お父様。お姉様、では、離れのお客様を宜しくお願い致します。花房家にとって大事なお仕事のようですから」
「はい、分かりました」
私はそう言い、家元に頭を下げて、離れに向かった。
離れに向かうと、先輩はそわそわした様子で、離れの玄関の前で待っていてくれた。
朝には咲いていた朝顔がまもなく完全にしぼもうとしていた。黄色いひまわりの花が先輩の後ろで咲いて、夕暮れの風に揺れている。
路面電車で隅田川沿いまで移動するのだ。
先輩は浴衣を召されていた。
私の夏物の薄紅の着物を見た先輩は、目を見張った。
「うん、綺麗だな」
――あっ!
先輩は前と同じ言葉を言ってくれた。
私はそれだけで、胸がいっぱいで、頬が真っ赤になった。
「行こう」
低い声で先輩が私に囁いた。タエさんは、火打石で験担ぎをして、私たちを送り出してくれた。
この夕暮れ、私は、初めて、先輩と女性の姿のまま、帝都の街に外出をした。




