鷹条Side 打倒、『先輩』とやらだ
私が離れで待っていると、花房家の次女が尋ねてきた。
――確か……鈴乃さんだ。
私が外出するために玄関で靴を履いている時にやってきた。
「今、お姉さんは、お着替え中でいらっしゃいますよ」
タエさんがそう教えると、一気に不服そうに頬を膨らませた。
「えーっ!?またお客様とご一緒にお出かけですか?お姉様ばかり、ずるいですー!」
鈴乃という娘は文句を言っていたが、母屋で作ったという五目ごはんをお裾分けとしてタエさんに渡すと、お稽古の時間が近づいているとかで、洋館の方に慌てて戻って行った。
久しぶりの快晴で、私はどこかウキウキしていた。
――りんちゃんが以前好きだったという先輩とやらに負けないよう、今日はしっかりと彼女を楽しませよう。
私は妙に気合が入っていた。朝食の後に少しだけ仮眠を取り、逢引きの計画を自分で立てたので、少し心が浮き立っていた。
四谷から日本橋までは市電に乗って行った。詰襟を着て丸眼鏡をした彼女の姿は、私にとって非常に馴染みのある光景となり、道中、楽しく移動できた。
ただ、路面電車の中で、彼女を見つめる男性や、歩いていると彼女を振り返る学生がいると、なぜか苛立ってしまった。
――お前が、先輩か……?
まさかとは思うが、本当に一瞬疑ってしまうのだ。
嫉妬だ。
彼女を見つめる男という男に苛立ち、嫉妬を覚えた。
自分でも呆れてしまう。
どうしたら良いのか分からない。
――りんちゃんは、私のためにわざわざ詰襟を着てくれているのだ。
だから、周囲の人には彼女は男性に見えているはずなのだ、と何度も自分に言い聞かせた。
日本橋のデパートで、何か買ってあげようと思ったが、いきなり贈り物をするのは、迷惑に思われるだろうかと迷った。
デパートの中の喫茶店はとても混んでいたが、制服を着たメイド姿の女性が席に案内してくれたので、私はほっとした。
「ハットケーキは食べたことありますか?」
りんちゃんが、おずおずと私に聞いてきた。
――先輩……。
――先輩……。
――先輩と一緒に、りんちゃんはここに来たことがあるのか?
私は嫉妬に駆られて思わず口調がそっけなくなってしまった。
「無いが?」
「……ない……んですね。美味しいんですよ」
りんちゃんは、一瞬だけ遠くを見るような目をした。
――あぁっ!ほら、やっぱり!先輩とやらと来たんだな……?
私の胸は熱い炎のようなもので貫かれた。何がなんだか分からないが、とにかく嫉妬にまみれた男とは、私のことだ。
私は必死に自分の感情を抑え込もうと努めて、眉をひそめたまま、うなずいた。
「そうか。美味しいんだな。楽しみだ」
――雅親、耐えろ……堪えろ……今、愛しいりんちゃんの隣にいるのはお前だ!しっかりしろ!
私は金縁眼鏡を神経質に抑えて、笑顔を作ろうとした。
――そうだ。今、この詰襟姿で丸眼鏡のりんちゃんを独り占めできているのは、俺だ!
私は胸の中で、幸せな感情が嫉妬心に打ち勝つのを待った。
先ほども、エスカレーターにりんちゃんをエスコートして乗った。私と彼女との身長差がかなりあるので、どうやっても自然に肩を抱き寄せてしまう姿勢になる。
それが嬉しかった。
男性が男性をエスコートしているように周囲からは見えていることなど、まるで気にしなかった。
そして、どうやら私はこの最新式の乗り物に慣れているようだった。
――以前にも来たことがあるのか?店内の大体の様子が分かるな。
私はそのことに驚きつつも、胸を張ってりんちゃんを店まで案内できることに嬉しさを感じていた。
華やかな日本橋のデパートにはモダンガールがあちこちにいた。それにも私は特段目新しさを感じず、ひたすらに店内の喫茶店にりんちゃんを連れて行くことに専念した。
時折、りんちゃんの様子を伺うと、実に楽しそうに周囲を見ていて、時折、私の顔を見上げてニコッと微笑み返してくれた。
――おぉ、ほら、りんちゃんも楽しそうだ……良かった……本当に良かった……思い切って良かった!
私は英断をした自分にうんうんと頷きながら、今日は必ず彼女を、先輩と一緒にいた時より、幸せだと彼女に思ってもらいたいと、心から願った。
――打倒、先輩とやらだ。
注文されたハットケーキが届くと、りんちゃんは丸眼鏡の奥の瞳を輝かせて、手を叩いて喜んだ。
「素敵!美味しそうです!ね?」
私の真正面に座ったりんちゃんが顔をぱっと輝かせて私に同意を求めた。
――可愛い。信じられないくらいに可愛い。
「あぁ、そうですね」
私はにっこりと微笑んだ。嬉しかった。
――連れてきて良かったぁ。
ハットケーキは美味しかった。この世のもとも思えないほど、徹夜明けの体に沁みた。この味を生涯忘れないのではないかと思った。
それは、目の前に特別な女性がいるからだと私は自覚していた。
――私は幸せ者なのかもしれない。
――記憶を失ったけれど、こんな素敵なりんちゃんがそばにいてくれる。
私の心は舞い上がっていた。
帰りに、デパートで何か記念に買ってあげたいと思った。
先輩とやらに対抗心を燃やした私が、今日のことを彼女の記憶に残る幸せな逢引きにしようと思ったから。
「……その……紅とか……いつもお世話になっているから……お礼に買いましょう」
「え?」
――よし!先輩は買ってくれたことがないな?
私は、りんちゃんの反応に躍り上がりそうになった。
――よしよし。
私は、戸惑った様子のりんちゃんの肩を抱き抱えるようにして、ハイカラな化粧品売り場の方に歩き始めた。
その時だ。
「あっら!弟さん!?」
誰かの手がりんちゃんの肩に触れた。
私とりんちゃんは驚いて振り向いた。
若いモダンガールが、さも驚いた表情で立っていた。
「一色百合乃です!ほら、新宿の牛鍋屋でお会いしましたでしょう?」
資産家の娘らしく、大量のデパートの紙袋を手にし、後ろのお付きの者らしい男性2人も両手にデパートの包みを抱えている。
「奇遇ですわ!弟さんとご一緒にこんな化粧品売り場で贈り物選びですか?、百合乃、お手伝いしましょうか?」
私は、りんちゃんが男性に見られるよう詰襟を着ていることを失念していた。
――そうだ。この格好のりんちゃんが化粧品売り場にきたら、不愉快な扱いを受けるに決まっている!私としたことが!
「……いえ……少し迷っただけです」
私はそれだけ言うと、回れ右をして、その場を立ち去ろうとした。
「待って!待って!ねぇ、うちの車で送りますわ!」
私はりんちゃんの肩が震えているのを感じた。
――ダメだ。弟などと言われて、彼女が傷つかないはずがない。私のせいでこんな格好をしてくれているのに。
「一色さん、大丈夫ですから。お構いなく」
「あのぉ、お名前だけでも教えてくださらない?百合乃、ずっとあれから忘れられなくて」
私はさっとりんちゃんの顔を見た。
うつむいて、青ざめている。
――しまった。本当にもう帰ろう。何もかも台無しだ。
「百合ちゃん!」
「あ、鹿乃子様」
――え?
――九重鹿乃子さん?
私の背筋がスッと寒くなった。私の元許嫁である九重鹿乃子さんがここで登場すると、本当にまずい。
私はスッと頭を下げて、りんちゃんの手をつかんだ。手を繋いだ。
「走ろう」
小声でそっとりんちゃんの耳元で囁くと、りんちゃんの手を引いて走った。
「あ!待って!」
「百合ちゃん、あの方どなた?」
「私が恋焦がれているお方よ。名前を存じ上げないの」
そんな会話が聞こえてきたが、私はもう振り向かなかった。
市電に乗り込んで、私はりんちゃんの手を離した。 温かかった。 もっと、繋いでいたかった。
ダメだ。
7月に花火大会がある。
そこでは、りんちゃんには詰襟ではなく、着物を着てもらって、お出かけしようと誘おう。
――次に誘う時は、詰襟姿では、ダメだ。
私はそう決めた。
市電を乗り継ぎ、四谷に戻る間、30分の間に私はどうやってこの償いをするかを考えた。
りんちゃんは、始終俯いていた。
先ほどまで嬉しそうに笑っていたのに、その横顔はもう沈んでいた。
私は路面電車を降りて、花房の屋敷まで歩いて戻る中で、りんちゃんに思い切って言った。
「7月の両国花火大会に、一緒に行ってくれないですか?」
りんちゃんは、ハッとした様子で私を見上げた。
「何か思い出されたのですか?」
――あのデパートに行ったことがありそうだというのは分かるが、記憶が何か戻ったわけではないな。
「いや、思い出せないが、花火大会に一緒に行って欲しいんだ。今度は詰襟姿ではなく、りんちゃんとして一緒に行ってほしいんだけど、だめかな?」
その瞬間、私の言葉を聞いたりんちゃんは、目を丸くした。丸眼鏡の奥の瞳が心なしか潤んだように見えた。
「なぜ……ですか?」
「なぜって……私があなたと、着物姿のあなたと、女性としてのあなたと、一緒に歩きたいと思うから」
私はキッパリと言った。
その瞬間、りんちゃんは、うつむいた。
――あぁ、先輩を思い出したのか?
――しまった。断られるだろうか……。
だが、りんちゃんは顔を上げて、涙が滲んだ瞳をキラキラさせて、私を見上げた。
「はい、是非ご一緒させていただきとうございます」
その瞬間、私の胸の中に熱いものが込み上げてきて、天まで舞い上がりそうな心地とはこういうものをいうのだと理解した。
「うん、行こう!」
空は心地よく晴れていて、まもなく空はピンクに染まるだろう。
私は両国花火大会で、男性としての自分を意識してもらおうと思った。
――先輩とやらが、一体誰なのか分からないが、りんちゃんと手を繋ぎたい。
私が残念な男だと思われてしまうかもしれない。
だが、私はどうしても、りんちゃんを振り向かせたかった。




