先輩が、私を誘ってくれた
土砂降りの後は、爽やかな晴れ間が広がった。
初夏が来たようだ。
梅雨が明けたかのような晴れ間に、清々しい光が離れにも差し込んだ。気温が一気に上がるようだ。
たっぷりと水分を含んだ土は早くも昼間には乾き始め、私とタエさんは掃除、洗濯と午前中は家事に追われた。
昨晩私が寝た布団のシーツも洗い、庭先に干した。布団も干し、お陽様の光をたっぷりと当てた。昨晩までの気温の下がり方が嘘のように、ぽかぽかの天気だ。
朝ごはんのとき、先輩は目の下に隈を作って現れたが、なぜか少し不機嫌そうだった。着物はいつもよりビシッと着こなし、髪も撫で付けられているのに、美しい横顔は少々近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
――昨夜とご様子が違う……。
――怒っていらっしゃる……?
ただ、朝食を食べる間、私は先輩の視線をやたらと感じ、先輩と何度も目が合った。その度に私は昨晩のことを思い出して、真っ赤になってうつむいた。
腕の中に抱き止められた感覚が残っていた。
あってはならない妄想をしてしまいそうで、自分が怖く、不埒な残像を思い浮かべる自分がとても恥ずかしかった。
胸の鼓動がうるさく、頬が上気してしまう。
だから、その朝、私は余計に熱心に家事に勤しんだ。頭から、色んな残像を振り払うために。
ひとしきり掃除も洗濯も終わると、ラジオを聴きながら、タエさんと繕い物に集中した。
「りんさん、舞の家元のお嬢様なのに、なんでもおできになるのね」
「そんなことはないですよ。お料理はそれほどでもないです」
「まぁ、謙遜しなくても大丈夫ですよ。今朝のアサリご飯はとても美味しゅうございましたよ」
「アサリは、先輩がお好きでしたから。以前に練習したのですよ」
「まぁ!この前のライスカレーも大変美味しゅうございましたし、いつでもお嫁さんになれますね、うふふ」
私はタエさんの「お嫁さん」と言う言葉に、胸をつかれて思わず手を止めた。温かいものが込み上げる一方で、私などが先輩の妻になどおこがましいと言う気持ちで、いたたまれない気持ちにもなる。
「タエさん、身分が違いますので……それに……」
私は声をひそめた。続きを言う前に、先輩の声に遮られた。
「りんちゃん、ちょっといい?」
顔を上げると、襖を開けて先輩が顔を出していた。先輩は洋装して、金縁眼鏡をかけていらした。
――あぁ、お出かけされるんだ。
私は少し心が沈むのを感じて、先輩の顔を見上げた。
「なんでしょう」
――どなたのところに行かれるのでしょう。その格好をされるということは、他の方に気づかれずに帝都を歩かれるということですよね……?
私はもしかして、鹿乃子様だろうか、とか、一色百合乃さんだろうか、とかいろんなことを一瞬で想像してしまった。
「今日の午後、日本橋のデパートにハットケーキを食べに行こう」
私は先輩の言葉にぽかんとしてしまったと思う。
――私とお出かけしてくださるのですか……!?
「ほら、りんちゃんは甘いものが好きそうだから、いいかなと思って。私も何か思い出すかもしれないし」
私は嬉しかった。他の女性とお出かけするのかと一瞬落胆した後だったからか、余計に嬉しかった。
「は、はい!すぐに着替えます!」
先輩はその瞬間に、にっこりと笑った。どこかほっとしたような、嬉しそうな笑顔だった。まるで、私が一緒に行くといったことを、心から喜んでいるみたいに。
それだけで、私の心は浮き立ち、昔の先輩そっくりの反応に、舞い上がってしまった。
「まぁ、よろしいですこと!是非、楽しんでらしてくださいませ」
タエさんも縫い物を置いて、私たち2人の様子を交互に見て微笑んでくれた。
「あ!洗濯物を取り込むまでには帰りますから」
私は申し訳ないと思って、タエさんに謝った。
「いいですのよ。そのくらいなんとでもないですよ。それより、ぼっちゃまのことをよろしくお願いしますね。記憶が戻るのが一番なのですから」
タエさんは私に頭を下げた。
「そんな!頭を上げてくださいな」
私は慌ててタエさんの膝下に座った。そんな私にタエさんは両手をしっかりと握り、うなずいてくれた。
私は慌てて離れを飛び出し、母屋まで走った。私の部屋の奥に詰襟を隠していた。
詰襟を胸に抱きながら、私は思った。
――先輩が、私を誘ってくれた。




